こちらでは、カウンセリングや精神分析(的心理療法)に関して日々思うことを書いていきたいと思います。

 

 2024年3月31

「人間としての治療者」

 いやあ、4月からはここ一年間で参加した勉強会にプラスしまして、8つの勉強会(通年)に参加いたします、、、

 当然、同じ曜日に2つということもありまして(;'∀')

 ここ一年間もちょうどよい+アルファ―の分量だったのですが、4月以降は大丈夫でしょうか、、、現実検討力が落ちているな。

 まあ、あまり気にしないことにしまして、私の大注目は「人間としての治療者~葛藤と決断の弁証法~」です。お名前を書いていいのかわかりませんが、筒井亮太先生が主催されている勉強会、今年のテーマは「人間としての治療者~葛藤と決断の弁証法~」!!

まさに私のど真ん中じゃあありませんか!

 取り上げられている文献は難しそうですが、これもあまり気にしないことにしよう。楽しみだあ(⋈◍>◡<◍)。✧♡

 

 2024年3月17

「フロム・フォーラム」

 本日は、KIPP主催の「フロム・フォーラム-今、フロムから学ぶー人間の破壊性と社会的性格-」に参加いたしました。こちらは二回シリーズで、フロムの愛弟子から学ぶというありがたい企画で、本日はRainer Funk先生の講演とディスカッションでした。

 いやあ、素晴らしかった素晴らしかった(⋈◍>◡<◍)。✧♡

 これまでフロムを投げ出していた自分を恥じましたよ、、、エーリヒ・フロムを読まねば~~

  ウィキペディアによると、新フロイト派、フロイト左派とされるとのことですが、関係精神分析とこんなに近い方がいらっしゃったとは!!いやあ、まいったまいった。

 まずは未読の「よりよく生きるということ」を読むことにします。こちらは、故・小此木啓吾先生の翻訳本だったのですね。フロムというと「愛するということ」「自由からの逃走」というのしか知らない私でした。

 今日も素晴らしい一日だったなあ。

 

 2024年2月25

「前田重治先生」

 え?!前田重治先生、お亡くなりになったというのは本当なのでしょうか、、、

 

 2023年11月21

「関係精神分析」

 ミッチェルの、「関係精神分析の視座―分析過程における希望と怖れ」が品切れとなり、Amazonで6500円以上になっております。

 昨日から、この本の訳者である辻河先生の臨床講読会に参加させていただいているのですが、訳者から購入させていただけないかという図々しい考えを思い付き、お願いしたところ、横井公一先生に連絡をしてくださり、横井公一先生から直接メールをいただきました☆彡残部があるということで、非常に嬉しかったです。

 関係精神分析の勉強を始めてから、横井公一先生のお姿や振舞いを拝見しているのですが、若い先生方からの信頼があつく、とても謙遜で腰の低い方で、お会いしてみたいな~と思っておりました。実際にとても謙虚な先生ということで、私が勝手に作っている「良き臨床家」のリストに加えさえていただいておりました。

 稀有な本が手に入るのも嬉しいし、横井先生からメールをいただけたことも嬉しく、感激しております!

 11月8日に、ミッチェルの「関係精神分析の技法論: 分析過程と相互交流」が、横井公一先生、辻河昌登先生らの翻訳で出版されたようですので、これも読んでみたいな~

 まずい!ようやく論文を一本書いて、12月22日までにもう一本書こうとしているところでした。

 

 2023年11月11

「フェレンツィ」

 今日の20時から22時まで、関係精神分析の勉強会でした。以前にもご紹介しましたが、ルイス・アロンの「こころの出会い」を読んでいく勉強会です。

 今日はフェレンツィとオットー・ランクについて取り上げ、二人の貢献のなかに関係論の起源を見出すという内容でした。やはりフェレンツィは魅力的な臨床家だなと思いました。フェレンツィはフロイトの精神分析を受けており、クラインやジョーンズの精神分析を行った人であることは有名です。今日の勉強会では、フェレンツィが重篤な性的トラウマを負ったサヴァーンとの相互分析を行ったことを勉強しました。「先生はどう思うの?!」「先生のここがダメ」などと患者に言われたこともあったようです。

 フェレンツィが相互分析を始めたのは、患者がフェレンツィのことを「どんな本物の同情も共感も欠けていて、感情的に死んでいる」と述べたことへの反応としてだったそうです。フェレンツィはこのように言われることに心当たりがあったそうで、そのように自分に罪悪感を感じやすい、何事も自分に向けるフェレンツィのありようを感じました。そうして、フェレンツィは、患者との相互分析に熱狂し、よりよいやり方を模索したそうです。

 私の関心事は、当事者性を持った分析家(セラピスト)がどこまで患者(クライエント)に同一化するのか、ということです。これは関係精神分析が考え続けているテーマだそうなので、しばらく関係精神分析を勉強し、関わっていきたいと思いました。

 

 2023年11月11

「日本のありふれた心理療法」

 精神分析学会(in広島)に参加しました。ご報告はまたの機会に~

 今日は勉強会が2つあるのですが、夕方以降のため、自宅にて研鑽しております。

 大学の附属図書館に入荷していただいた、東畑開人さんの「日本のありふれた心理療法」を借りてきました。楽しみにしていたのですが、目次を見てみると、心理臨床学会の学会誌「心理臨床学研究」に掲載してあったものがいくつか載っているではないですか!それをどこかで明記していることもなく、、、え~読んだことがないものを読みたかったよ、、、まあ、これ1冊に投稿論文をまとめてもらったと思えばいいのか、、、自分が買ったわけではないので(借りている本なので)つべこべ言わないことにしよう。

 学会誌の掲載論文を載せているため、タイトルは「ありふれた」ととっつきやすいですが、専門的な本だと言ってよいと思います。

 

 2023年11月1

「北山修先生その3

 朝日カルチャーセンターでの、北山修先生の「日本語の心」というレクチャーをYouTubeで12回分放送しているのですが、たびたび聴いていたので12回分聴いちゃいました~。

 毎回毎回面白いです。マロンも惹きつけられるように聴いています。

 「意味としての心」という本を解説されているレクチャーです。おススメです☆彡

 

 2023年11月1

「解釈

 精神分析研究(精神分析学会の学会誌)に、4年前に原著論文として提出し、査読の結果、修正再提出となっていた論文の修正にとりかかっています。4年前は、査読結果にあまりにもショックを受け、査読結果の内容が頭に入らず、修正再提出ができなくなりました。しかし、今再び読んでみると、なかなか的確なことが書いてあるではないですか!(当然ですが、、、)

 これは、論文を修正する上でかなり役にたちます。乾先生が亡くなられたあと、乾先生から学んだことを振り返り、整理しなおすことがご供養にもつながる、と勝手に考えております。今週、金曜日から日曜日に精神分析学会の大会があるのもいい勉強になるかなと思っております。 

 そんな作業に取り組んでいたら、ふと2001年の雑誌「臨床心理学」を持っていて、特集が「解釈の実際」ではないですか!そしてこの特集を組まれたのが乾吉佑先生ではないですか!!たまたま持っていたのですが、乾先生、かなりいいことを言っていらっしゃる(当然ですが、、、)。松木邦裕先生の論考とか、ユング派の老松克博先生の論考やら、開業臨床の栗原和彦先生の論考などなど、非常に充実している特集です。

 さあ、論文投稿がんばるぞ~

 

 2023年10月15

「ユング派

 今日は、たまたま河合俊雄先生の最終講義を観て、山中康裕先生の「深奥なる心理臨床のために~事例検討とスーパーヴィジョン」を読んだのですが、ユング派ってすごい!と感動し、お二人の先生の切れ味に脱帽し、自分の日々の臨床+スーパーヴィジョンを振り返って猛反省しております。

 山中康裕先生のご著書は、27事例について山中先生がコメントを書かれている本なのですが、そのコメントの切れ味と深さが凄すぎます!!まさに「深奥」です。ユング派の方々にとっては、これくらいのコメントは日常茶飯事なのでしょうか。特に衝撃を受けたのが、2事例目の「子どもの心理療法における基本的態度」です。

 まだまだ勉強足らずだな、、、猛省中。

 

 

 2023年10月15

「関係精神分析勉強会

 昨日は、精神分析の中でも、関係精神分析入門講座でした。夜の20時から22時で、オンラインであります。対象関係論の勉強会は100名ほどいるのですが、関係精神分析の勉強会はなんと13名でした、、、これをみても、現在の対象関係論の勢いと、関係精神分析の駆け出しぶりがうかがえます。関係精神分析の勉強会の料金もお安く、4回で8000円です。(対象関係論の勉強会は1回8000円です。)

 対象関係論の先生方が超自我的であるのに対し、関係精神分析の先生方の真面目で穏やかでフレンドリーで謙虚な雰囲気が好きです。そもそも対象関係論は、単純にいえば、患者のことを治療者が観察し解釈していくというのに対し、関係精神分析は患者とセラピストの主体の出会いを大切にしています。今日の話の中では、患者が治療者のことを分析することも大切にしているそうです。そして、治療者が患者に解釈を伝えるときは、一方的に言うのではなく(精神分析の大半は『解釈を投入する』と言います)、どうしてそのような解釈に至ったのかの説明をしなければならないそうです。あくまで治療者と患者は対等であらねばならないそうです。

 関係精神分析で大御所の横井公一先生という方がいらっしゃるのですが、昨日の勉強会にも参加されていて、その物腰の柔らかさは素晴らしかったです。若手・中堅の先生が発表されて、分からないときとか困ったときには「こういう時は横井先生にお願いして、、、」と、横井先生に無茶ぶりしていたりして、ほほえましかったです。

 関係精神分析入門講座では、アロンの「こころの出会い」という関係精神分析の古典的な教科書と言われる本を読んでいきます。結構分厚い本をあらかじめ読んでいることを前提に授業が始まります。昨日の勉強会で印象的だったのは、テーマが「分析者の主観性の表現としての解釈」というもので、解釈はあくまでも治療者(分析者)の主観であり、治療者が患者に解釈を投入するのではなく、治療者と患者が一緒に考えていて、患者から治療者について解釈してくることもある、治療者も分析され、解釈されることで、双方が成長していくのだという主張でした。関係精神分析は、他の精神分析を批判しているのではなく、両方の視点が大切であると考えています。

 精神分析では治療者はどちらかというと知的な存在ですが、関係精神分析では治療者は情緒的で応答的であるというあたりが、私は非常に興味を覚えますし、こんな精神分析があるのであれば、まだ精神分析から離れずに勉強していきたいと思います。

 

 2023年10月9

「異なる立場の心理療法

 2007年9月発行の雑誌「臨床心理学」に、乾吉佑先生企画で、実存する1事例を精神分析、分析心理学、クライアント中心療法、行動療法、認知行動療法、森田療法、臨床動作法、ブリーフセラピー、芸術療法、家族心理・家族療法、グループアプローチ、統合的アプローチの第一線の心理臨床家が論じる、という特集があります。「心理療法入門ー各学派から見た1事例」という特集です。

 2007年にそんな興味深い企画をたてるなんて、乾吉佑先生素晴らしい!!これが、1600円で買えるのもお買い得感満載です。事例を提供している森本麻穂さんは、私の修士課程の同期で、駆け出しのころの事例を取り上げているので、読みやすいですし、それを各学派の先生方がどう見るのか、というのも興味深いです☆彡いやあ、昔の雑誌臨床心理学の特集は痒い所に手が届くいい企画が多かったなあ~(懐古)

 と懐かしんでいたところに、2013年9月発行の「心理療法の交差点」(新曜社)という本があることに気づきました。この作品は第2巻も出ております。1巻目はこれまた1事例について、精神分析、認知行動療法、短期/家族療法、ナラティヴ・セラピーの先生方が、どのように見立てと介入を行うかというのが数ページにわたって記述されています。そして、興味深いのは、学校臨床の事例、医療臨床の事例、複雑な問題を抱える家族の事例と、3事例が取り上げられていることです。ちなみにお値段は3400円+税とお高いですね。

 第2巻では、同様な企画で短期力動療法、ユング派心理療法、スキーマ療法、ブリーフセラピーの先生方が登場されています。

 いやあ、乾先生の二番煎じですが、なかなかこういった企画は稀有ですので面白いですね!!「心理療法の交差点」2冊を、図書館に入れてもらえば良かったな~また、機会があったら頼もう!

 

 2023年10月4

「課題図書

 対象関係論勉強会の、精神分析基礎講座を受講しているのですが、11月からは技法論に入ります。

 どうやらサンドラーの「患者と分析者ー精神分析臨床の基礎ー」という本が教科書になるらしいのですが、1980年出版の前田重治先生監訳の本が第1版で、古本で300円程度で購入できます。同じ本の第2版が2008年に出ていまして、藤山直樹先生、北山修先生訳なのですが、こちらは古本でも5000円越えでお高いのです。迷わず、前田重治先生の方を購入して読んでいたのですが、Strachey,Jが、「ストラッキー」と訳されているではないですか!!一般的には「ストレイチー」ですので、これにはショックを受けました。もしかしてもしかして、このような誤訳?が散見されているので、第2版が出版されたのでしょうか、、、第2版を買うかどうか迷っているのですが、講義では先生方が資料を配布されるので、しばらく第1版にしておこうかなと思います。朝からショックな出来事でした、、、

 

 2023年10月4

「論文を書く研究会

 月に1回、1時間の、論文を書く研究会(無料、zoom)に参加させてもらっています。メンバーは十数名いるようですが、皆さんいろいろと忙しくて、だいたい参加するのは数名です。今回は、私の論文を皆さんに読んでいただき、ご意見を言っていただきました。

 いろいろな職場、職種、オリエンテーションの方がいらっしゃるのですが、主催者の先生は精神分析をオリエンテーションとする心理師の先生です。私は4年前に、精神分析研究に論文を投稿し、査読者の方に詳細に意見をいただいて修正再提出となっていたのです。しかしながら、なかなか手が付けられなくて、修正の期限を過ぎてしまったという、今考えると勿体ないことをしているのですが、その論文について皆さんに検討いただきました。主催者の先生以外、ほとんど何もおっしゃらないので戸惑ってしまいましたが、主催者の先生がバシバシおっしゃってくださり、修正原稿を12月の研究会で出すようにと決めてくださったので、目下、その論文を執筆中です。

 主催者の先生は、心理臨床学研究(心理臨床学会の学会誌)に投稿するのが良いのではないかとおっしゃったのですが、年内に3本の論文を通したい私は、大学の紀要か、心理臨床センター紀要に投稿しようと考えております。大学の紀要は対外的にオープンとなっているので(インターネットで読むことができる)、事例を掲載しているために心理臨床センター紀要への投稿を検討しています。恩師の故・乾吉佑先生とのスーパーヴィジョンの中で指摘された解釈についての話を広めるべく、論文を書くことを目標にしているのですが、心理臨床センター紀要はインターネット上で読むことができないため、多くの方に読んでいただくためには本当は心理臨床学研究に投稿したほうがいいのでしょうが、、、

 私にとっては、なかなか論文を書くのは難儀なことなのですが、締め切りや掲載可能性が高い紀要があると助かります。しかし、完成度を高くしたいという欲があり、またしてもなかなか筆が進まないのが困ったところです。

 

 2023年9月27日

「精神分析家育成セミナー

 精神分析学会と精神分析協会がありまして、精神分析協会は国際基準の精神分析家を育てる機関です。先日、精神分析協会主催の精神分析家育成セミナーというのがありまして、精神分析家を目指す臨床家(精神分析協会に属しておらず、これから精神分析家になりたいと思っている人たち)を対象としたセミナーが開催されました。参加条件として、精神分析協会の認定基礎セミナーを受講中または修了したもの、というのがありました。

 たまたま基礎セミナーを受講している私は、精神分析協会ってどんなところだろう、という興味だけで参加しました。参加してびっくりしたのは参加人数の少なさです。オンライン受講できるのに、10名程度しかいません。基礎セミナーの参加者は100名程度はいると思うのですが、精神分析協会に所属したいとか興味があるとかという方は少ないのですね。たしかに、週4日、5日のセラピーを実際に実践していくとなると、なかなかそんな機会に恵まれるというのは少ないのでしょうね。

 精神分析の訓練を受ける候補生には、訓練分析、スーパービジョン、セミナー、毎月の各支部(東京、福岡)におけるケースカンファレンスなどの訓練が提供されます。

 奥寺先生の「やさしい精神分析とやさしくない精神分析」という講演、症例検討会、分析協会における訓練の説明の3部構成でした。奥寺先生の講義では、以前BPDと呼ばれていた人は、今でいう複雑性トラウマの方々であること、重度の外傷性精神障害の治療をするにはフェレンツィを参照しなければならないことなど、興味深い話を聴くことができました。

 症例検討会では具体的にどのようなやりとりがなされているのかがわかり、「私は精神分析には向かないな」と思ったところです。

治療者が行った解釈が語られたのですが、「ぜんぜん患者さんに添っていない、気持ち悪い」と感じてしまいました。 

 

 2023年9月23日

「産業カウンセリング

 産業カウンセリングというと、私の経験は、メンタルクリニックでリワーク(うつ病等で、職場を休職している方のための、職場復帰プログラム)を立ち上げ、心理教育と認知行動療法、力動的集団精神療法のプログラムを担当し、リワークに入られる方全員にストレスや自我状態の心理検査を実施しました。これをだいたい7年間行いました。

 産業カウンセリングの名著といえば、乾吉佑著(2011)「働く人と組織のためのこころの支援──メンタルヘルス・カウンセリングの実際」遠見書房.があります。第4章では、一般社員が示す、一過性のストレス反応や不適応の問題を取り上げています。一般社員がこのような状態になると、仕事の作業能率の低下や職場内でのチームワークなどに種々の影響が出て、職場健康管理の上からも由々しき問題となります。

 乾先生は、外的不適応と内的不適応と分けています。外的不適応とは、外側から注目されるような不適応で、作業能率低下、ミスの増加、事故頻発、遅刻、早退、対人トラブル等があげられます。内的不適応はひそかにこころに秘められていることは多く、多くは身体的な問題(胃部不快、心悸亢進、不眠傾向、食欲不振、頭痛など)に転化されることで初めて理解されると言っています。そしていくつかの事例をあげて、そのありようを説明しています。

 乾先生によると、外的不適応の方は経験的に、精神障害か、精神的障害の前駆状態か、職場への強い反応や抗議の意味をもつ場合が多いと指摘されています。

 私のリワークの経験からは、内的にaggressionの問題を抱えており、それをうまく解消できないでいる方もある程度いらっしゃるのではないかという印象があります。そのため、認知行動療法だけでなく、いろいろな自己理解のためのプログラムが必要となってくると思っています。

 

 2023年9月20日

「思う解釈と伝える解釈

 学会や事例検討会などにおいて,精神分析的なオリエンテーションであるとして発表された事例について,「これはサポーティブサイコセラピーであって,精神分析的精神療法ではない」と指摘されることがありました。そして精神分析的ではないという理由で,事例に対する理解や議論がなされませんでした。

 また,精神分析のオリエンテーションでスクールカウンセラーをしている人が,「解釈をしていないと精神分析的ではないと言われるだろうから,精神分析学会では発表しない」と言うのを耳にすることもありました。

 私は,「サポーティブセラピーであって,精神分析的精神療法ではない」という指摘は,支持をしているのであって洞察的ではない,解釈がなされていない,という意味だととらえています。しかし、はたして精神分析的であるとはどういうことなのでしょうか。転移逆転移を理解し,解釈を伝えることのみが,精神分析的なのでしょうか。

 今は解釈を伝えるときではないと考えた場合には,解釈を控えたり,先送りにすることがあるのではないでしょうか。サポーティブ(支持的)であることは,精神分析的ではないと単純に言えるのでしょうか。セラピストの介入として,支持と解釈が共存することはあり得るのではないでしょうか。

  G.O. Gabbardは,「原則として,患者にあと少しで意識化されるという時点まで転移の解釈は先送りすべきである」,「機が熟さないうちに解釈されると,患者は全体的に治療者の言っていることが理解できず,誤解されていると感じるかもしれない。ときには,転移解釈を先延ばしすることで,患者が自分で転移感情に気付くことがある」と指摘しています。私は,乾吉佑先生とのスーパーヴィジョンで,「セラピストが解釈を自分の心の中に留め置き,クライエントに伝えないことがある。解釈には,この,心の中に留め置く『思う解釈』と,クライエントに『伝える解釈』があると思っているんだよ」と指摘されたことがありました。

 精神力動的に本人の内面や環境を理解しようとする視点があり,「思う解釈」と「伝える解釈」を吟味する作業を行い続けている心理療法は,サポーティブセラピーではなく,精神分析的心理療法といってもいいのではないだろうか,と私は考えています。

 

 2023年9月17日

「自我心理学派と関係精神分析

 今日は精神分析基礎講座でした。10:00~16:45までみっちり精神分析漬けです。

 前半は岡田暁宜先生の講義で自我心理学のお話、後半は岡野憲一郎先生の講義で米国関係精神分析のお話でした。岡田先生の自我心理学の講義では、フロイトの時代から現代までを説明してくださり、古典的な一者心理学から対象を取り入れ二者心理学へ展開していく流れのお話でした。古典的な自我心理学は、フロイトの心的構造論を継承していること、すべての心的現象と機能は脳の働きであること、適応論および発生ー発達論の見地に立っていること、児童分析と乳幼児の母子関係の研究を重視していること、社会ー文化ー歴史的な観点をもち、自我同一性を獲得するという考えにたっているということで、小此木先生が「自分はエリクソニアンだ」とおっしゃっていたそうです。現代の自我心理学は、古典的な自我心理学のもつ科学主義を批判し、より経験に近い精神分析を志向し、見立てをする上でパーソナリティ構造を重視し、分析が適応な患者とは、退行と非退行を行ったり来たりできる自我の機能を持っていることというお話でした。一番印象的だったのは、解釈よりも自由連想に価値を置くということでした。

 岡野憲一郎先生の関係精神分析の講義では、関係精神分析はトラウマ、解離、愛着理論、脳科学、メンタライゼーションを統合したものであること、内的対象を重視する対象関係論と違い、治療者と患者の主体性を大事にし、解釈を与えることは治療者が観察者になっており、一方的な決めつけを行っているという話がありました。関係精神分析はグリンバーグとミッチェルが1983年に出した本「精神分析理論の展開―欲動から関係へ」からはじまっており、もともとはフェレンツィの流れを汲むとのことでした。米国では関係精神分析は非常に流行っているのに対して、日本ではまだまだ知られていないようです。また、現実主義とヒューマニズムを目指しており、そこにフェミニズムという筋金が入っているとのことで、解釈を超えた何かを探るために、「出会いのモーメント」「現実関係」「真摯さ」「イイカゲンさ(遊び)」などの概念が重要となるそうです。一番興味深かったのは、アラン・ショアの「愛着トラウマ」理論で、生まれて一年間の母子のコミュニケーションが対人関係をはぐくむ(それは右脳の役割)ために、理想的な養育においては母親の右脳と乳児の右脳の同期化がみられるという研究があるそうです。

 先生方が事例の話もされ、それぞれの違いがより理解できたように思います。

 

 2023年9月16日

「トラウマにふれる

 昨今、トラウマについての議論が盛んです。先日、大学院博士後期課程の親友、おしゃれ番長が宮地 尚子著(2020)「トラウマにふれる―心的外傷の身体論的転回」金剛出版.を紹介してくれました。

 「トラウマは、必ずしもトラウマらしい形をしていない。それは、言い澱みであったり、はぐらかしであったり、逆に淡々とした語りであったりする。複雑な表情の変化であったり、こちらに伝わってくる体の緊張であったり、予約された面接の無断キャンセルであったりもする」と記述されていて、心理臨床において、心当たりがあるなと思います。

 トラウマにふれるということは大変な治療過程であることが想像されます。「忘れていたはずのこと、ないことにしていたはずのことが、鮮やかな体感記憶として、全身に降ってくる。そこからうまく逃れる術を見つけられないと、気がふれてしまうことさえある」「触れるのでもなく、触れないのでもなく、ただそこに何かがあると感じてみる。そこにある何かに敬意をはらい、佇んでみる」と、はらはらおろおろしながら、身体にきちんと目を向けていくこと、具体的な心身の緊張と弛緩、警戒と安心、抵抗と諦めといった変化の振幅に目を向けることの大切さが語られています。

 ヴァン・デア・コーク(2016)「身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法」紀伊國屋書店.という本がありますが、身体志向のさまざまな治療法の効果が紹介されています。

 「トラウマにふれる」、これから読んでいきたいと思います。

 

 2023年9月15日

「ロールシャッハ診断法Ⅰ

 ロールシャッハの解釈についてですが、量的分析については、私はもっぱら高橋雅春・北村依子著(1981)「ロールシャッハ診断法Ⅰ」を使用しておりました。古い本ですね、、、

 あまりに使いすぎて、表紙はとれ、表紙の文字も見えなくなってしまっているので、2冊目を購入したくらいなのですが、量的分析については、これ1冊で所見が書けると思います。継起分析は、深い深い世界なので、専門の先生のもと、沢山の事例にあたっていくのが必要となります。小此木啓吾・馬場禮子著(1989)「精神力動論―ロールシャッハ解釈と自我心理学の統合」は、大きな本で重たくて、1万円越えの本なのですが、馬場門下の先輩が、この本をいつも持ち歩いてロールシャッハ・テストの所見を書いていました。

 いやあ、ロールシャッハ・テストはハマるとかなり面白いです。まるで、10枚の図版を使って心理療法をしている感じがします。しかし、精神科医の先生の中には、「ロールシャッハテストはあてにならない。」という方もいらっしゃるので、そういう場合は私は愛想笑いをしてその場を通り過ぎます。

 

 2023年9月14日

「夜の勉強会

 昨日は21:30~23:15くらいの時間で、アビー・スタイン著「児童虐待・解離・犯罪:暴力犯罪への精神分析的アプローチ」第3章の『犯罪者の不運』を勉強会で輪読いたしました。(この論文については以前ブログにも書きました)

 犯罪者の「不運」とは、犯人がうっかり自分の正体を暴露する証拠となる手がかりを犯罪の現場に残していきがちであることから名づけられています。この章では、かなり残酷な犯罪の事例がいくつか載っているのですが、これを加害者支援の視点から論じている論文だったので、参加者の皆さんからは「わかる部分もあるが、被害者の立場にたってしまう」という声が多かったです。

 犯罪者の多くが小さい頃のかなりひどい虐待を経験しているということと、犯罪を犯してしまうメカニズムが精神分析的に書かれています。先生いわく、加害者臨床は難しく、「訓練された好奇心を持つこと」が必要とのことでした。カウンセリングをしていても、本人の深層にある確信(恐怖や罪悪感、恥、不安、孤独など)をつくとカウンセリングをドロップアウトする人が多いらしく、けれども確信に届かないと治療にならないというお話が出ました。

 先生いわく、この本は全然売れていないそうです。あまり犯罪とかには興味がある方は少ないのかもしれませんね。その他、加害者臨床の本としては、ウィニコット著「愛情剥奪と非行」、フォナギー著「司法心理療法」という本がよいそうです。

 心理学の世界に入ったきっかけが、非行臨床をやりたかったという私ですが、知らないからこそ思えただけであって、深く知るとなかなか難しい臨床なのだろうなと思いました。

 

 2023年9月13日

「精神分析学会

 日本精神分析学会第69回大会が、11月に広島で開催されます!場所は広島国際会議場、広島市文化交流会館で行われます(宮島ではありません)。シンポジウムテーマは陰性治療反応です。

 それにしても、大会参加費が毎度毎度のことですが、高いんですよね、、、ふう。会員でも事前参加登録をしても参加費12000円で、初日の午前にある臨床ケースセミナーはプラス3000円、初日の夕方からある教育研修セミナーはさらにプラス3000円なので、18000円かかります、、、それにプラスして旅費を考えると、相当な出費です。一部、オンライン開催をしていて、最終日はすべてオンライン開催されているので、最終日の学会賞講演、会長講演、シンポジウム(陰性治療反応)だけ参加するのもありだと思います。

 お金の話から入ってしまいましたが、私は初日の午後から参加しようと考えているのですが、教育研修セミナーが12個あり、その中で何に参加するのか迷っております。最近は、これまでよく参加していた精神分析学会の本流をいく対象関係論から離れ、関係精神分析に少し興味を持っているので、そのセミナーに参加するか、北山修先生企画の「生々しい事柄を言葉にする営み」に参加するかで迷っております。関係精神分析は日ごろ勉強会に参加しているので、なかなかお目にかかれない北山先生のセミナーにしようかと思うのですが、内容が難しそうなのと(一見わかりやすいのですが、よくよく読むと難しい)、話題提供者の3名の先生方が、差別、身近な人の突然死、自殺、をテーマに話されるというハードな内容に加え、それを北山先生が「生臭い」「穢れ」という言葉で表現されているので、ショックを受けてしまうかもしれません。この内容は、北山先生独自のお考えだと思うのですが(しばしば書籍にも登場してきますし)、死を穢れとみる視点にはついていけないので、どうしようかと考え中です。

 最終的には日ごろの臨床に役立つもの、という視点で選ぼうと思います。

 

 2023年9月12日

「ロールシャッハ法

 ロールシャッハ・テストは、心理臨床家にとっては必須の心理検査になります。最初に就職した単科精神科病院では、週に1回はロールシャッハ・テストを施行していました。ロールシャッハ・テストは心理検査の中でも解釈が非常に難しい心理検査で、院生時代に、先生からは「まずは100人とりなさい」と言われておりました。単科精神科病院では、アセスメント面接4回とセットになってオーダーが出ることが多かったのですが、施行後だいたい2週間以内に所見(心理検査の結果)を出さねばならなかったため(特に病態水準を細かく出すことを求められ、NPOなのかBPOなのかPPOなのか、その中でもlowerなのかmiddleなのかhigherなのかを所見に明示しなくてはなりませんでした)、初学者だった私は、ロールシャッハ・テストのスーパーヴィジョンを受けておりました。

 今はお亡くなりになった岡部祥平先生という、昔ながらの片口法の専門であった先生(片口先生のご友人でもあった)に、ロールシャッハ・テストをとるたびにスーパーヴィジョンをお願いしておりました。岡部先生は笑顔が柔和な優しい先生ですが、ロールシャッハ・テストに関しては細かいところまで教えてくださる先生で、スコアリング、解釈、病態水準、所見まで丁寧に指導してくださいましたので、本当にお世話になりました。岡部先生がご高齢になるまで、お宅にお邪魔し、季節折々の鳥たちが集うお庭を見ながらご指導をしていただきました。

 単科精神科病院をやめてからも、いろいろな病院やメンタルクリニックでロールシャッハ・テストを施行してきましたので、データ化しているものだけでも300事例は超えています。時には大学院のカウンセラーの先生方が参加しているロールシャッハ法の勉強会や、馬場禮子先生のお弟子さんがやっていらっしゃるロールシャッハの事例検討会に参加したり、勉強を続けてきました。そのころ出版の企画があった本が、2017年に出版された「力動的心理査定」になります。馬場禮子先生のお弟子さんたちは、継起分析を行う片口法を「馬場法」といってもいいではないかという話をされていて、昨今、知る人の間では「馬場法」という言葉がよく聞かれます。

 残念なことに、乾先生が亡くなられた翌日に、馬場禮子先生もお亡くなりになりました。改めて「力動的心理査定」を読み返してみると、病態水準に応じた事例がいくつか掲載されており、非常にまとまった良い本だなと思います。

 

 2023年9月10日

「POST

 念願のPOST(精神分析的サポーティブセラピー)入門が届きました!待っていました~

 握手会がどうのとか、タイトルがどうのとかいろいろ申し上げましたが、面白い本です☆彡

 架空事例が2つ載っていて、一つはPOSTで終結にした事例、もう一つはPOSTで開始して、その後精神分析的セラピーを再設定する事例です。それぞれの事例に、詳細にセラピストがどう感じ、考えたか、それをどう活かしていったかが書いてあり、なるほどなるほどと納得しながら、一方で自分の臨床と重なる部分も発見しながら、興味深く読み進めることができます。

 POSTは日々の実践の再定義であり、POSTと名付けて日々の臨床を正当に評価し、積極的能動的な選択肢としていくと述べられているように、多くの心理臨床家が読めば「あるある」と納得できる事例となっています。時に精神分析的な用語がはさまれますが、精神分析を知らない方でも読んでいけるのではないでしょうか。

 ある先生が「中堅の臨床家が日々の臨床を見直すのに役立つ」とおっしゃっていましたが、どうなのでしょう。精神分析学会のざわざわの中で、心理臨床家の先生方がこういった本を積極的に出されたことに敬意を表したいと思います。

 

 2023年9月9日

「こころの出会い

 ルイス・アロン著の「こころの出会い」を訳された先生方による勉強会に参加いたしました。今日は、第1章と第2章の解説でした。ニューヨーク大学ポスト博士課程のプログラムがフロイト派と対人関係学派で対立し、硬直化した中で、ミッチェルがアメリカに受け入れられ始めた対象関係論を教えるために、対人関係論と対象関係論を含みこむより幅広い用語として、「関係性」という用語を選択したそうです。

 1980年代からアメリカの精神分析学のなかで、欲動理論から関係性の理論への理論的転回が生じました。関係精神分析は、固定した概念や実践を持つものではなく、精神構造は欲動からではなく、その個人の他者との関係から派生しているという認識がその中核となるようです。この本の著者であるアロンは、古典的なフロイト派の教育をうけて、関係論に入ってきていますが、ミッチェルは対人関係学派の教育を受けて、関係論を創出したということです。

 ミッチェルや、関係論的アプローチを築き上げたものたちは、フロイト派だけでなく、対人関係論、対象関係論、自己心理学の純粋主義者からも批判されました。さまざまなアプローチを統合したことをたしなめられ、それらのアプローチは相互に適合しがたいと指摘されたということです。

 私は、自己心理学が一者心理学であるのに対して、その発展形である間主観性理論が二者心理学であることに関心をもっています。患者と分析家の主観性を重視する、交互的で相互に影響を及ぼす主体の相互交流に力点があります。どこまで分析家が自己開示するのかというのは様々らしいですが、精神分析家が自己開示に否定的であるのに対し、昨今の関係性を大切にする潮流に興味を持っています。あと3回、勉強会があるので、参加していきたいと思います。

 いやあ、それにしても、監訳者の横井公一先生の良きお人柄がにじみ出ていましたね。良き臨床家リスト(友達と勝手に作成中)に加えておこうっと。

 

 2023年9月8日

「カウンセリングの頻度について」

 上田勝久さんの(2023)「個人心理療法再考」金剛出版.を読んでいます。

 今回は、私の関心の高いカウンセリングの頻度について書かれた章について考えてみたいと思います。

 従来から、日本で行われる心理療法(カウンセリング)は「週1回50分」をベースとしてきました。しかし、なぜ週2回や10日に1回や、30分や75分ではないのか、週1回50分がどのような治療的効果があるのかはあまり議論されていません。一方で、頻度が密になればなるほど、話題は日常生活に関する内容よりも心理療法体験そのものに関する話題のほうが語られやすくなると思われます。頻度はセラピストが相談者(上田さんはユーザーと呼んでいますが)に対してどのような支援方針をもつのかによって決まってくるかもしれません。その支援方針に応じた設定、治療構造については、相談者と決めるのではなく、セラピストが決めるものだと上田さんは主張しています。

 週2回以上の頻度の恩恵として、「抱える機能の増強」があげられます。そして、相談者が抱える不安や苦痛の濃度がそのまま維持された形で次のセッションに持ち込まれやすくなります。セラピストは高頻度になればなるほど、相談者に巻き込まれ、より相談者のこころを生きることになります。そして、設定や構造がセラピストと相談者を強固に抱えてくれることでお互いより自由に事を考えやすくなります。

 一方で、2週に1回、1か月に1回、それ以下の頻度になると、設定のもつ「抱える機能」が相当に脆弱になるため、「自我が取り扱える範疇」にしておく工夫が必要となり、必然的に支持的心理療法が介入の中心となります、低頻度設定では、自我の防衛解除ではなく、自我機能の再活性化が必要となります。「1回1回のセラピストからの提言をもとに、相談者が生活をよりよいものにしていく」ことが支援の対象となります。セラピストの介入は、助言やマネジメントが中心となります。

 以上が上田さんの主張ですが、私は頻度については、セラピスト、相談者の二者で決めるものだと考えています。高頻度にするメリット、デメリット、低頻度にするメリット、デメリットを提示し、二者で話し合うことが必要と思います。もし相談者が「プロに任せます」とおっしゃった場合にも、頻度については説明すべきですし、途中から双方に疑問が生じた場合には話し合って頻度を変えていくことが、双方でカウンセリングを進めていくためにも必要ですし、相談者が頻度を変えたいと申し出た場合には、それについて話し合うことが相談者の主体性を重んじることになると考えています。

 これは自分の経験からそう思うのですが、精神分析学会では「ここで頻度を変えたことがよくなかった」と一蹴されることがあります。治療構造については、硬く守るべきという意見が多い中で、いろいろな経験を通して、そうではないということを主張していきたいと思います。

 

 2023年9月6日

「精神分析と美」

 読むと具合の悪くなる論文をもう一度読むことにしました。それは精神分析学会誌の精神分析研究vol.56No.1(2012)の、藤山直樹先生による「精神分析的実践における頻度ー生活療法としての精神分析の視点」という論文です。(藤山先生、すみません!)

 その内容は、まず、日本の精神分析は、古典的な精神分析設定(週5回)を基礎として実践し訓練する実践家がきわめて少ないという事実と、多くの精神分析的臨床を行う臨床家が、週1回という頻度の少ない臨床実践をし、それを精神分析的精神(心理)療法と称している、と指摘しています。そして、藤山先生の考えでは、精神分析の原理のうち最も基礎的なものは、セラピストが自分の行おうとするセラピーをまず患者として受けて、その過程を全うした経験をもつことを要求されていると考えているとのことです(藤山先生はこれは精神分析の原理である、とおっしゃっています)。それが最もいいという根拠はなくても、フロイトがたまたま週6回という設定を用いたことによって、精神分析はその道を歩み、多くの臨床事実が生じてきたと指摘しています。

 さらに、日本のいわゆる精神分析的精神療法は、この部分に目をつぶり、方法論の違ったやり方で得られた臨床事実を(週1回のセラピーで得られた臨床事実)を、精神分析理論によって説明することが可能であるという仮定のもとに論じられてきた、と指摘しています。ここまでは至極まっとなご意見だと思いました。

 私の違和感はそのあとなのですが、「一週間という中でのそれぞれのセッションの差異が、メロディを生むのであり、重層的なリズムと旋律からなる「音楽」が精神分析的生活を単調なノイズの反復ではない、美的な分節化にみちびくのである。つまり精神分析的生活は、日常的で剥き出しの生活ではない、美的な生活の側面を帯びることになる」という主張です。

 この、音楽やメロディ、美的、ということばが突然でてきており、藤山先生は精神分析を「文化」であると位置付けておられます。私にはこの感覚が全くつかめず、どこが音楽で美的なのか、不思議でなりません。突然出てきて、非常に消化不良です。しかし、この論文は素晴らしいものとして引用されることが多いといいますし、ドナルド・メルツァーの「精神分析と美」という著作もありますし、つきつめるとこの境地に至るのかもしれません。(松木邦裕先生は、「美っていうのは僕はよくわからない」とおっしゃっていましたが)。なんだか非常に長い文章になってしまいました、、、

 

 2023年9月5日

「アタッチメント」

 難しい論文を読む勉強会(私が勝手にそう呼んでいるのですが)で、アビー・スタインの「犯罪者の不運」という論文を読んだと以前書きました。この論文が理論の部分が非常に難解であったため、もう少し勉強しようと思って、工藤晋平先生の論文を探していたところ、工藤晋平先生と淺田慎太郎先生の2017年の論文「アタッチメントの観点から非行・犯罪をモデル化する」がありました。

 アタッチメントの観点から、非行・犯罪の発達と発生を考え、非行・犯罪のモデル化、およびそれによる支援の糸口の考察を行ったものです。アタッチメントとは、子どもが養育者に対して築く絆を指して、ボウルヴィが定義したものです。安心感を基盤として安定したアタッチメントが形成されますが、養育者の応答が感受性のない場合には、不安定なアタッチメントが形成されることになります。不安定なアタッチメントとは、回避型、アンビバレント型、無秩序/無方向型の3種類があります。この論文では、その中でも特に無秩序/無方向型なアタッチメントパターンが非行・犯罪に影響しているのではないかと考えられています。

 支援としては、警察等の権威を利用すること、養育者等の子どもへの監督やモニタリングを支援すること、恐れが低減され慰められ安心感を得て学業や仕事などへと移れるような、安全な避難所や安心の基地となる関係を持つこと、などがあげられています。

 

 2023年9月3日

「シンポジウム」

 2023年9月2日(土)、3日(日)と、「フェレンツィ生誕150年シンポジウム フロイトとの終わりなき対話」というシンポジウムが早稲田大学でありました。オンライン参加をいたしました。

 フェレンツィ生誕記念なので、フェレンツィの話が中心かと思っていると、ドゥルーズが中心のご発表もあり、フェレンツィが一向に出てきません、、、発表形式も、わかりやすいパワーポイントとかではなく、論文のように書かれた20数ページのワードが映し出され、それを発表者の先生方が読み上げているではないですか!その形式を、全員の先生がとっていらしたのでこれまた仰天いたしました。哲学の話が中心(のように聞こえた)で、臨床の話も出てきませんし、語られている言葉が難しすぎて、こんな世界もあるのか、、、ラカン派は難解と言われているのはこういうことだったのか、、、と納得いたしました。

 2日目午後には、おなじみの奥寺先生が発表なさいました。まず、奥寺先生が「こんなところで発表させていただき、私の話などは、、、」と恐縮されていたのに驚きました。奥寺先生の話は非常に分かり易く、日ごろ慣れ親しんでいる言葉にあふれ、フロイト、ウィニコット、フェレンツィ、オグデンと出てきました。いやあ、日ごろ難解と思っている精神分析に、いかに自分が少しでも慣れているのかということを痛感いたしました。

 哲学、ラカン、ドゥルーズ、、、非常に難解ですね、、、

 

 2023年9月2日

「松木邦裕との対決」

 いろいろな本を積読しつつ、読書をしているのですが、本日は細澤仁編(2012)「松木邦裕との対決~精神分析的対論」岩崎学術出版社.を読んでおります。この本は、細澤先生の企画で、松木邦裕先生の還暦記念論文集という趣旨の本です。

 松木先生のいくつかの論文に対して、松木先生の考え方に異なる考えをもっている先生方がもの申すという趣旨の「対決本」だそうです。この、松木先生の弟子ではなく、松木先生と異なる考えを持っている臨床家を選定されたのは非常に面白いですね!

 対決は五つあって、「悲しみをこころに置いておくことをめぐって」「終結をめぐって」「情緒的に受け入れることをめぐって」「心身症治療をめぐって」「退行をめぐって」のそれぞれのテーマについて、松木先生の論考と、5人の先生方の論考が対峙されています。それぞれ、祖父江典人先生、上田勝久先生、関真粧美先生、岡田暁宜先生、細澤仁先生が対決されています。祖父江典人先生は、松木先生との縁が深い先生ですが、松木先生の影響を受けたのか受けなかったのか判然としないほど自由人とのことで、ご依頼されたとのことです。

 私はこの中では「悲しみをこころに置いておくことをめぐって」が気になっております。松木先生は「悲しみをこころに置いておけないことー抑うつ状態についての覚書」として、抑うつ状態を「こころが悲哀の感情や罪悪感という痛々しい中身を包みきれなくなってこころから排出している(一部改変)」と表現されています。これに対しては私は違う考えを持っています。それはいいとして、祖父江先生は「悲しみをこころに置いておけるために」と対決されています。

 なかなかこういった本は稀有ですね!

 

 2023年9月1日

「読書会の予習」

 難しい論文を読む勉強会があるので、今日はその課題論文を読んでみました。

 アビー・スタインという人の「犯罪者の不運」という論文です。32ページもあるんですよ、、、犯罪者もマイノリティであるという予告がありましたので、心して読もうと思っておりました。この論文は、「児童虐待・解離・犯罪:暴力犯罪への精神分析的アプローチ」という書籍の第3章に載っています。

 出だしは事例が取り上げてあったので、かなり分かり易く感動しながら読んでいたのですが、だんだん難しくなりました。スタインは、精神分析家たちが論文で言っていることを沢山引用しており、かなり力のこもった論文でした。

 私が理解したところによると、犯罪者には、早期に受けたあまりにも残忍な虐待によって、植え付けられた残忍にふるまう超自我が存在しており、その結果、解離によって犯罪を行うこととなるということです。犯罪者は、自分の正体を示す手がかりを犯罪現場に残すことによって、承認されること、処罰されること、束縛されること、罪を償うことの4つの目標に近づくことができるというのです。そして、警察に追跡されることは、自分が重要であり、求められていることを意味する、と書いてありました。

 大半があまり理解できていないので、再読が必要ですね。

 

 2023年9月1日

「フェレンツィ」

 猛暑の中、日本心理臨床学会が始まりましたね~

 昨日、「POST」のサイン会について散々騒いでおりましたが、私はオンライン組ですので、横浜の会場にはまいりません。(失礼しました)

 心理臨床学会とは別の話なのですが、2023年9月2日(土)、3日(日)と、「フェレンツィ生誕150年シンポジウム フロイトとの終わりなき対話」というシンポジウムが早稲田大学戸山キャンパス33号館第一会議室であります。こちらは無料です。

 オンライン配信もやってくださるとのことなので(オンライン参加に限り要予約、おそらく9月1日中が締め切り)、こちらに参加しようと考えております。

 フロイトが裕福な方の精神分析をやっていた一方で、フェレンツィはフロイトが反対していた心的外傷の研究を行っておりました。戦争帰還兵や虐待、貧しい方々の治療を行ったといわれています。

 精神分析では、フロイト的態度かフェレンツィ的態度か、というようにしばしば比較されますが、私はフェレンツィに人間味を感じております。今回のシンポジウムはラカン派の先生方が多いようですので、日ごろ精神分析学会ではお会いできない先生方のお話もきけると楽しみにしています。

↓ 以下、リンクです。

https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2023/09/symposium_on_the_150th_anniver/

 

 2023年8月31日

「POST」

 先日(8月26日)、岩倉 拓、関 真粧美、山口 貴史、山崎 孝明、 東畑 開人 (著)「精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門」が心理臨床学会の書籍売り場で発売開始、と書きました。山口貴史さん、山崎孝明さん、 東畑開人さんが、学会の書籍売り場でサイン会をされるらしいです。

 確かに、応援しているのですが、う~ん、、、サイン会??

 これまで、村瀬嘉代子先生がサイン会をされているのを拝見したことがありますが、それ以外は見たことがありません。かなりの気合ということでしょうか??

 それはクライエントのため??

 なんだか雲行きが、、、モヤモヤ、、、

 私だったらサイン会をしていないときに、こっそり買いたいな。

 

 2023年8月31日

「東畑開人さん」

 「自己紹介ブログ」にも先日(8月29日)書きましたが、またまた東畑開人さんの登場です。

 大学院博士後期課程の親友、おしゃれ番長に教えてもらったのですが、大学院で東畑開人さんの「Super-Visionを病むこと」が取り上げられたことがあるとおっしゃるのです!その論文が掲載された日本心理臨床学会の学会誌、「心理臨床学研究」29 (1). 2011年が手元にないではないですか!!Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 これはまた、掲載されている著書「日本のありふれた心理療法: ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学」を購入することになるのか??と思っていましたが、おしゃれ番長が論文を開業オフィスに持っていらっしゃって、送ってくださるとのこと。感謝!

 いやあ、それにしてもどうしてここまで気になるのでしょうか、、、?

 地道に臨床をしてきたカメの自分が、うさぎにひとっとびに抜かれた感があるのかな。いや、抜かれてはないな。(←自信家)

専門書や論文ではなく、なぜここまで一般書を執筆されているのか(ご本人は専門書でもあり、一般書でもあると位置付けていらっしゃるかもしれない)、なぜメディアへの露出が多いのか(臨床はいつやっているのか)など、気になることがたくさんあるのですよ~

 なぜ大学教員をやめたのかとか。十文字学園女子大学准教授を経て、 慶應義塾大学大学院社会学研究科訪問准教授だから、教育をやめてはいないか、、、訪問准教授って何?(調べると、給与は出ないが、講演などを有料でされる方のようです)

 すみません、支離滅裂になってきましたので、このへんで今日はやめておきます。

 

 2023年8月29日

「40年間の自閉症を生きる」

 乾吉佑(2009)「思春期・青年期の精神分析的アプローチ~出会いと心理臨床」遠見書房.の第9章におさめられている事例論文、『40年間の自閉症を生きる』を拝読いたしました。この事例論文は、14年前、2009年に出版されたときにも拝読しているのですが、当時読んだときよりも今回再読したときの方が、セラピストらしさがぐっと伝わってきて、感動したり、笑ったり、学んだりできました。出版から14年経ってますから、今では50年越えのケースとなるのでしょうか。

 乾先生ご自身が書かれていますが、「私は、発達障害領域の専門家でも、またこの領域を主に研究している実践家でもない」ということです。多くの心理臨床家がいろいろなケースを担当している現状があり、たまたま担当した方が発達障害の方であったという場合に、乾先生はどうであったかを語ることが、臨床家仲間にも意味があると思って執筆されたそうです。

 事例論文の中には、初診時のクライエントの様子や、その後の面接経過が詳細に記述されています。なかなか重鎮の先生の詳細な事例やクライエントとの実際のやりとりを読む機会が少ないので、非常に勉強になりますし、セラピストらしさが伝わってきて、面白くもあります。クライエントがどんどんセラピストを信頼し、関わりを深めていく様子が読み取れます。その中には、セラピストの理解や解釈を伝えることはなく、心に留め置きながらも、治療的に関わっていく様子が描かれています。

 まとめとして、セラピストが地道な面接をせずに諸外国の受け売りや流行に走ってはいけないという警鐘や、心理面接はクライエントが作るものだということ、心理臨床家は何人かのクライエントを担当するが、クライエントにとってはセラピストは唯一の存在であることが書かれています。

 また素晴らしい論文、そして臨床家に出会えました。

 

 2023年8月28日

「勉強会2」

 土曜日は、大学院(博士課程後期)同期のおしゃれ番長主催の勉強会でしたが、日曜日の朝は大学院(修士課程)同期の勉強会でした。もう20年は続いている同期だけの勉強会です。当初は大学院の最寄りの喫茶店で、部屋をかりて勉強会をしていたのですが(臨床心理士試験対策や、公認心理師試験対策も一緒にやりました)、今はオンラインを通じて関東に住んでいない同期も参加しています。

 日曜日は発表者の子が体調が悪かったので、私が話題提供することになりました。いきなりふられたので、2時間何のテーマで話そうかと思ったのですが、話したいことがいっぱいあったので(治療構造論とか、カウンセリングの頻度とか、精神分析と精神分析的心理療法とか、POSTとか)それらを自分の体験をベースにして話していたら、皆よく聴いて話もしてくれ、とても楽しい時間でした。新潟から認知行動療法が専門の子が参加しているのですが、大野裕先生と知り合いで、ベックの講演も聞いたとのことで、いろいろ裏話とか聞けたのも面白かったです。

 「リカバリーを目指す認知療法―重篤なメンタルヘルス状態からの再起(CT-R)」という本の話もしてくれ、Amazonによると、アーロン・ベックが生前最後に情熱を燃やしたCT-Rの全貌。統合失調症などにより重篤な精神状態にある人々を、アスピレーション(夢や希望)をきっかけに再起させる、新しくあたたかい心理療法の登場、という内容のようです。よくよく話を聴いていると、POSTとか、私が日々の臨床でやっていることと、同期がやっている認知行動療法に違いはあまりないなと思いました。事例を、精神分析的に理論化するか、認知行動療法的に考えるかの差なのだなと思います。

 大野裕先生も、ベックも、もともとは精神分析の訓練を受けており、ベックは「実証的な(科学的な)精神分析を目指す」と、米国の精神分析協会の面接で話したところ、「それは抵抗がまだ解消されていない、訓練分析が失敗している」と言われて不合格になったとのことでした。そこで運命がわかれ、認知療法が生まれてくるとは人の人生は興味深いですね。

 

 2023年8月27日

「勉強会」

 昨日は、大学院の同期(親友)が主催している勉強会に参加いたしました。

 もうずいぶん長い間、開催されている勉強会のようですので、まだ数回しか参加していない新参者の私は静かに参加していればいいのですが、私は発表者の方の臨床に対する姿勢とか、謙虚さとか、関係性とかに感動してしまい、つい、他の人の発言を待てずに(一人くらいはなんとか待ちますが)発言してしまいます。

 発表者の方は、お若く見えるのかお若いのかわかりませんが、ずいぶんエネルギーを注いで臨床をされていて、自分はここまで真剣にできているかな、と自分を振り返る機会にもなります。これまでいろいろな勉強会に参加してきましたが、この親友が主催している勉強会は、参加者の皆さんがいろいろな視点を持っていて、それを丁寧に、率直に言葉にされるので、とても良いグループだなあと思います。変に理論化したり、考察したりせずに、感じたことを的確な言葉で表現されるのもすごいと思います。

 理論も大切ですけど、臨床から学ぶことは何ものにも代えがたいなと痛感しました。貴重な勉強会に誘ってくれた同期に感謝です。

 

 2023年8月26日

「POST」

 いよいよ、岩倉 拓、関 真粧美、山口 貴史、山崎 孝明、 東畑 開人 (著)「精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門」が出版されます。9月上旬の心理臨床学会でも書籍売り場で購入できるようですし(値引きされるのでしょうね)、どれだけ注目を浴びるのでしょうか。

 現在は、東畑 開人先生の「ふつうの相談」がかなり出版社の働きかけも強く、注目されていますが、いろいろ聞いてみるとこちらは臨床というよりも、研究にちかいもののようですので、私はまだ読んでいません、、、

 POSTの岩倉先生、関先生は臨床歴が長いですし、「POST入門」では事例も2つ、詳しく取り挙げていらっしゃるようなので、個人的にはPOSTの快進撃を期待しています。しかしながら、タイトルが「精神分析的」とついておりますので、精神分析に関心のない方はあまり購入されないのかな、と思っております。他の先生方がお考えになったものに、いろいろ注文をつけるのもおこがましいですが、「精神分析起源の」を強調するのは一般うけしないのではないかと思ったりしています。

 Amazonに紹介してあるように、「ありふれた臨床」を主張されているのですから、表紙に「ありふれた臨床」と書いた方が注目されるのではないか??と思ったりします。(しつこくてすみません、、、)

 ともあれ、大半の臨床家が日々行っている臨床が、精神分析とつながりをもつものとして提案されているセラピーですし、精神分析学会、ひいては精神分析の生き残りにも関わってきますので、著作にできるまで行動(運動)を起こされた先生方に感謝いたしますし、是非購入したいと思います(すでにAmazonで予約注文しました)。

 なんだか勧誘みたいになって申し訳ございません、、、

 

 2023年8月24日

「精神療法でわたしは変わった」

 増井武士先生の著書、「精神療法でわたしは変わった 苦しみを話さずに心が軽くなった」(木立の文庫)を読んでおります。増井武士先生は、神田橋條治先生のお弟子さんとして有名な方ですが、心理臨床学会で司会を務められていたのを拝見いたしました。発表者のこれまた著名な先生に「君はやさしくないね」とおっしゃったのが印象に残っています。増井先生のあまりにもエネルギッシュな存在と、歯に衣着せぬ発言にびっくりしたのですが、非常に臨床家という雰囲気を醸し出しておられました。

 増井先生のご著書を読んでいるのですが、最初はうつ病患者さんのリアルな状態が赤裸々にかかれていて、これを読むだけでもとても心苦しいものがあります。何が彼女をそこまで追い込んでしまったのか?と思うとともに、死にたいと考える人はここまで追い込まれるのだな、というのが切に伝わってきます。

 私はこの本の、「精神療法でわたしは変わった」というところと、「話さずに心が軽くなった」というところに惹かれて購入したのですが、値段も手ごろで1540円で購入できました。2022年8月に執筆されているので、わりと新しいですね。

 Amazonによると、セラピストから見たクライエントではなく、クライエントの目に映ったセラピストが描かれています。加えて、ここで紹介されるカウンセリングは、「言葉」に頼らない手法なのです。それがクライエントの「体感」実況中継で語られます。

 ということで、非常に楽しみにしているのですが、クライエントが語る病状の苦しみを読み終え、とても胸が苦しくなりました。しかし、良い本であることはにじみでているので、ご興味のある方はお読みいただくとよいかと思います。全部読み終わったら感想を書きたいと思います。 

 

 2023年8月20日

「スクールカウンセラー(SC)

 心理学科に入ってこられる学生さんの多くは、スクールカウンセラー(SC)になりたい、という方が多いなという印象があります。私が心理学を志したのは、不良少年の更生のためだったので、未成年の子のために力を尽くしたいというところは似ているなと思います。そしてよく見聞きするのは、臨床経験を積むことなく、いきなりSCになるとどう動いていいのかが全くわからず、仕事が続かない人が多いということです。

 確かに、SCは、窓口になっている先生(大抵が副校長)を筆頭に、保健室の先生、担任の先生、学年主任、親御さん、時には児童相談所など、連携・情報共有しなければならないところが多く、生徒さんだけと話をしていればいいということはありません。一つの学校にいればいいのならまだよいのですが、地域にあるいくつかの学校を巡回しなくてはいけなかったりもするので、とてもハードで力のいる仕事だと思います。

 私は当初から、SCだけはなれないなと思っていたので、臨床歴が10年以下の時はSC以外の仕事をしていました。そして、はじめてSCになった時は、通勤に1時間半かかる小学校で、やんちゃな地域でもあり、今では考えられないほど子だくさんの家族が多かったので(5人きょうだいとか当たり前の世界でした)かなりカルチャーショックを受けました。先生たちは、言うことを聞かない子の髪の毛を引っ張って、SC室に連れて来ることが多く、割と暴力的な学校でした。しかし、SC室に入ると静かにしている子が多く、当時はやっていた「なめこ」の図鑑を一緒に見たりして遊んでいました。また、子だくさんの家族の3番目の子が、問題児として言われていたのですが、たびたびSC室にきて、なめこのパズルを一生懸命にもくもくと取り組んだりしていました。

 言葉ですらすらと話すことは難しくても、SC室でゆっくり過ごしている姿が可愛らしかったです。

 その後、中高一貫のキリスト教の女子校に1週間のうち数日間、勤務しました。お嬢様学校だけれど、進学校なので勉強にうるさく、なかなかなじめない子がちらほらいました。教室にはいられないけど、SC室では楽しそうに話をする子とか、SCの前でもいい子でいなきゃと構えてしまう子とかいろいろいました。

 SCの難しさはたくさんあるのですが、やはり親御さんとの面接は難しいなと感じました。「うちの子の面倒を学校は見てくれない」とおっしゃる方もあり、先生方もたくさんの生徒さんの対応に追われているということもあって、いろいろな現実が見える中で、その子がどうすれば生き生きと生活できるかを一緒に考える時間が多かったように思います。

 虐待ケースもありますし、地域性もありますし、どこの相談機関が良いとか、どこの病院の先生がいいとか、そういう情報をきちんと知っておくことも大切だとおもいます。

 

 2023年8月19日

「治療構造について

 夏休みに入って、治療構造(カウンセリングの頻度や場所、時間などの決め事)についていろいろ読んでいるのですが、事例も載っていてとてもためになるな~という論文と、あいまいな(著者独自の)理論でもって言い切っている論文と、著者の経験に基づいてユーモアにあふれる論文とに、わかれるという気がします。

 あいまいな理論でもって言い切っている論文の著者の多くは、精神分析は美なのだ、とか、音楽のリズムだとか、こちらが共有できない感覚を有していて、何度もそれを主張されてきます。そういう論文を読むと、なんだか体の具合が悪くなります。

 よくよく考えてみると、非常に共感をもって読める論文の著者は、より多くの患者さん(相談者さん)に出会い、いろいろな方のニーズや事情を見聞きし、「こころの動かし方」が精神分析的なのではないかと思うようになりました。週4,5回、50分を主張する精神分析家は、5~6人の患者さんとしかお会いしていない(それも毎回1万円ほどの治療費を払え、時間の都合もつく恵まれた方)ので、現実感覚がずれていっているのではないかと思ってしまいましたし、河合隼雄先生が以前おっしゃっていたように、臨床家は多くの患者さんに会わないとだめになるということもその通りだと感じました。

 なぜか論文を読んでいると、週4、5回やっている人が偉くて、週1回あるいは隔週でカウンセリングをやっている人は申し訳ない気持ちを抱いている感じも受けますし、精神分析学会では隅に追いやられていると感じます。小此木先生や、狩野先生、土居先生の著作を読んでいると、今の精神分析家のように教条的ではありませんし、議論の広がりを好んでいらっしゃるように思います。

 重鎮の先生方の経験知も大切にうかがいつつ、臨床をどのようにやっているのか、臨床以外の振る舞いはどうであるのかに注目していきたいと思います。偉そうに書いてしまいましたが、若手から中堅、ベテランの先生まで、自由に議論できるといいなと思います。

 

 2023年8月19日

「カウンセラーの性格と力量

 どうも不思議なのですが、カウンセラーAさん(A氏)がいるとして、日ごろの性格が結構悪かったりします。たとえば、上昇志向が強く、自己愛的で、他者の地位を見極めて必要な人にだけ近づき、この人は必要ないと思った人には目もくれないとか、、、なんだか実際の人をイメージして書いているようですが、、、そういうAさんが、カウンセリングや精神分析の理論について、分かり易く、刺激的に語って、聞いていても面白いことがあります。私はAさんの語るときの、のけぞった姿勢や、声のトーンとかも含めて嫌いなのですが、知識量や理論については、圧倒的に負けているし、出している書籍も多いしで、ある意味すごいひとだとは思っています。Aさんは、ただ、性格が不器用で、孤独で、人との関係がうまく築けない人なんだろうなと思って、これ以上嫌いにならないようにしています。

 Aさんの日ごろを知らない人は、Aさんが世に出しているものを絶賛し、それで名前も知られていくので、どんどん出版数も増えていくという現状があります。「あ~、またこうやって騙されるひとが増えていくな」と思ってしまうのです。

 私の恩師は、非常に事例についてセンスのある方で、理論を持ちだして説明することはありません。スーパーヴァイジーが困っていることや気づかないことを指摘してくださり、スーパーヴァイジーを傷つけることもされません。逆に、頑張ってみようという気持ちになります。

 恩師のケースを聴く機会があったのですが、ゆっくりゆっくりと相談者さんに向き合って、相談者さんも自信をつけて社会に出ていくという感じです。私は個人的には、理論や考察を語ることがうまい人よりも、ケースを大切に丁寧にされる臨床家の方がすごいと思っているので、恩師のことはずっと尊敬してきました。性格もユーモアがあり、穏やかで、教え子を差別することなく、でもダメなものはダメとおっしゃる方で、そのような臨床家になりたいと思っています。

 しかしながら、恩師の書く本は、刺激的でもなく、キャッチ―でもなく、臨床にまじめに取り組んだまじめな本なので、Aさんほど売れないのだと思います。相談者の方がカウンセラーを選ぶときには、カウンセラーの日常の生活などはわかりませんが、話をしていくうちに自分に合うかどうかはわかると思いますので、ご自身の感覚を大事にしていってほしいと思います。

 

 2023年8月17日

アムステルダム・ショック

 日本における精神分析は、古澤平作や小此木啓吾の影響から長らく週1回程度の頻度で、カウチを使わない精神分析的なセラピーとして実践されてきました。1993年の夏に開催されたIPAアムステルダム大会の時、日本人の精神分析の二重性(大半が週1回で行われている)が世界的に知られるところとなりました。小此木啓吾が「アムステルダム・ショック」と呼んだ出来事ですが、匿名の手紙がIPA本部に届けられ、日本の精神分析実践が頻度の上で国際基準に満たないものであるということが国際的に明らかにされました。このことは日本の精神分析を学ぶ者にとっては深刻なダメージをこうむりました。そして、これがもとで9割の訓練生が精神分析の訓練からおりていき、残った人は数名だったそうです。

 その後、日本でも精神分析の訓練について国際基準に準じた形で整備をし、現在では訓練分析を週4回以上と、スーパーヴィジョンなどを受けなければならないことになっています。精神分析家の訓練などは日本精神分析協会が担っています。

 また、アムステルダム・ショック以降、週4回以上のカウチを用いたものを精神分析と呼び、頻度が少なく、カウチを用いないものを精神分析的心理療法と区別して呼ぶようになっていきました。日本精神分析学会では、大半の発表が週1回の精神分析的心理療法です。

 そしてこれまで書いてきたように、週1回なのか毎日なのか、精神分析的心理療法と精神分析はどう違うのか。そもそも精神分析のトレーニングを受けていないものが、精神分析的心理療法可能なのか、といった様々な議論が活発となっています。

 

 2023年8月16日

「週1回か、毎日分析か

 昨日、精神分析学会の学会誌、「精神分析研究」が届きました。ずっと以前から、週1回の精神分析的心理療法とは何なのか、毎日行う精神分析の技法を平行移動しただけではないのか、などの議論がありました。この特集は「週1回精神分析的精神療法における技法」と題して、昨年の精神分析学会の大会で行われたシンポジウムの記録です。

 まず、精神分析家の資格を持っていない、岩倉拓先生、早川すみ江先生のご発表があり、そのあとに精神分析家の資格を持っていらっしゃる鈴木智美先生のご発表がありました。三人の先生方の事例は素晴らしいものでした。その後、シンポジウムがあるのですが、高野晶先生、岡田暁宜先生の指定討論がありました。高野晶先生は、「週1回サイコセラピー序説」を執筆されているので、三人の先生方の技法上の工夫についてまとめて振り返りされました。岡田先生は以前のシンポジウムでおっしゃったように、精神分析的精神療法は表出と探索を志向した精神分析と、支持を志向した精神療法の混成物、合金的な実践であるとおっしゃっています。

 ほかに質問者として何人かの先生が質問されているのですが、奥寺崇先生が、「誰のための週1回なんだろう」と問題提起されました。権成鉉先生は、「精神分析的精神療法と精神分析は異質なものであるが、皆さんの発表を聞くと、週1回で精神分析をやっているように聞こえる」(精神分析的精神療法の最終目標は現実適応、精神分析の目標は心の理解)と発言されました。「週1回で精神分析をやっているようで、精神分析的精神療法と精神分析の技法の違いが見えて来ない」と指摘されました。そこは確かにそうだなと思います。

 中堅代表として、山崎孝明先生が、「週4回か週1回かと比較しないと論文は書けないのか。そうすると精神分析的とはそもそも何かという難しい議論になってしまう。今、私たちは何ができているのか、今何をしているかということを明確にすることが必要」と大事なところをご指摘されました。

 この議論に自分なりの回答を持ちたいと思いますし、治療者だけでなく、相談者の方にとっての頻度の意味についても考えていきたいと思います。

 

 2023年8月15日

「狩野力八郎先生

 狩野力八郎先生は、2015年に70歳で逝去されました。狩野先生は、私が最初に勤めていた川崎市にある武田病院(武田専先生が開業された)に、月に1度、スーパーヴァイザーとしていらっしゃいました。そのときは、心理室を含むリハビリテーション部と、看護部が交代で相談事例を出すことになっていましたが、狩野先生のご指摘が鋭すぎて、看護部のほうでは出すことに躊躇されていました。看護部は日ごろの労をねぎらってほしいという気持ちがつよかったのではないかと勝手に推測しています。

 狩野先生ははっきりと断定的におっしゃるので、時に傷つくことはありましたが、心理室の方ではこれ幸いと事例を出していた気がします。

 集団精神療法学会で発表したときに、あまりフロアの反応が芳しくなく、私は落ち込んでいたんですが、それを見かけた狩野先生がニコニコと近づいてきてくださって、「集団精神療法では、同じ病気の人を集めて行うというのが主流になってしまっているからね」と慰めとご指摘をくださいました。私のような若手にも気配りを忘れない、優しい先生でした。

 狩野先生が亡くなられたあと、著作集1,2が出版されました。1が「精神分析になじむ」、2が「力動精神医学のすすめ」です。

1の第Ⅱ部には「治療構造と倫理」と題された論文が掲載されています。

 1のまえがきから読み始めたのですが、狩野先生のスーパーヴァイジーであった藤山直樹先生が書かれており、その内容は狩野先生への尊敬の念と、亡くなられたことを受け入れられない哀しみとに溢れておりました。「このまえがきの原稿を書きはじめようとしたが、私はなかなか書きはじめられなかった」と始まります。そして、狩野先生が遅筆であったこと、お部屋は書籍や雑誌で雑然としていたこと、複雑な精神分析的思索者であったこと、教条的ではなく超自我になることなく、「分析的揺らぎ」というものを保持することこそが倫理的だと考えられていたことなどが情緒的に記されていました。

 素晴らしい臨床と思索を続けて来られた先達が次々に亡くなられていますが、残された私たちは、新しい理論に入る前に、先達の精緻な思索に学ばせていただくことがまだまだ必要なのではないでしょうか。

 

 2023年8月14日

「フロイトとラットマン

 小此木先生の精神分析研究誌上の最後の締めくくりとなった論文「フロイトとラットマンのかかわりにおける治療者の投影同一化と間主観的なコンテクスト(ストロロウ)の共有」(2003年のvol.47 No.4)を読みました。この論文の中で、小此木先生は、治療者フロイトと患者ラットマンの心的な共有性を見出されます。そしてこのケースの治療機序として、フロイトのラットマンに対する投影同一化が大きな役割を果たしていたとみなしています。

 そもそも「間主観性」は哲学由来の概念であり、自我心理学・自己心理学の流れを汲んでいます。面接室の中での二人の相互の在り方を表す言葉であり、その二人はどちらも主体性をもった現実的な存在であるとされています。一方、「投影同一化」はクライン派による概念です。この概念は、面接室の中での二人の心の行き来を表しており、その出発点はアナリザント(被分析家)側の内的空想にあってアナリスト(分析家)はその受け手となるとされています。

 このケースでは、ラットマンとフロイトは亡き父に対してあまりにも共通した心を持ちすぎていました。ラットマンの喪の仕事を通して、フロイトは自分自身の亡き父に対する、また失ったフリースに対する悲哀の仕事を遂行し、昇華することができたのでした。

 フロイトは分析記録をほとんど残していませんが、たった1例だけ残しており、それがラットマンの分析記録だそうです。間主観的アプローチを提唱したストロロウは、結局、治療者というのは自分の中でわかっていることしか患者について読み取ることはできないのではないか、そもそも本当に患者のことを完全に理解することはできないけれども、なるべく患者の体験に近いものに治療者は近づこうとすることだけしかできない、と言っているそうです。

 最後に小此木先生は、この論文のような、間主観性と投影同一化の見地に立ったフロイトの治療理解は極めてオリジナルなものだとおっしゃっています。

 この号には、その後、クライン派の松木先生・飛谷先生の論考、討論と続いていきますので、楽しみに読んでいこうと思います。

 

2023年8月13日

「小此木先生と治療構造論

 精神分析学会誌である「精神分析研究」を読みふけっていたのですが、2004年のvol.48 No.4が小此木啓吾先生追悼特集号になっています。読んでいると、著名な先生方が小此木先生を偲ぶ言葉を述べられたり、小此木先生と精神分析について語ったり、業績を振り返ったりされています。

 業績を振り返るでは、「治療構造論と治療機序」「間主観的アプローチ」「阿闍世コンプレックス」「対象喪失とモーニング」が取り上げられていました。その中でも、森さち子先生のお言葉が胸にしみました。

 2002年9月に日本心理臨床学会があったのですが、そこで小此木先生がシンポジストとして参加される予定になっていたそうです。「治療構造論」と銘打ったそのシンポジウムの当日、小此木先生は登壇されましたがご病気のため、その隣で貞安元先生が原稿を代読されたそうです。その原稿は、小此木啓吾著「精神分析のすすめ」に掲載されています。

 森さち子先生によると、2000年頃から、小此木先生は「治療構造論」を新しく編纂したいとたびたびおっしゃっていたそうです。1990年刊行の「治療構造論」後の、10年余りの間にさらに発展、展開した「新しい治療構造論」の本を作りたいと願っておられ、行動にも移されていたそうです。2003年のvol.47 No.4に掲載されている、小此木先生の精神分析研究誌上の最後の締めくくりとなった論文「フロイトとラットマンのかかわりにおける治療者の投影同一化と間主観的なコンテクスト(ストロロウ)の共有」では、間主観性理論が華やかに展開する今から30年前に、小此木先生はフロイトの間主観的な治療感覚をいち早く見出していて、そのオリジナリティを確認したい、という熱い思いがおありだったそうです。

 この特集号や「精神分析のすすめ」を読んで、今もてはやされている中堅心理臨床家の主張は、すでにフロイトの時代に語られていたことなのではないか、と私も思うようになりました。キャッチ―なコピーや、宣伝に惑わされることなく、先人の築いてきた論考や実践を読みなおすべきなのではないかと思った次第です。(しかし、このところ発刊されている中堅臨床家の主張も読まないといけないですね、、、)

 

2023年8月12日

「精神分析的実践の報告におけるdisguiseとconsent

 ひとつ前のブログにも書きましたが、2008年の精神分析研究、Vol52.No3に掲載されている小シンポジウム特集が「精神分析的実践の報告におけるdisguiseとconsent」であったことを知り、昨日の対談テーマではないか!と気づいたので、藤山直樹先生、北山修先生、狩野力八郎先生の論考を読んでみました。

 2007年に行われた小シンポジウムを論文化したものなのですが、驚いたことに、昨日の藤山先生や、富樫先生の議論と何ら変わりがないではないですか!!15年も経っているのに、、、北山先生は、終結した事例のみしか取り上げないとおっしゃっており、現在進行形の事例を取り上げることの危険性を具体的に書いていらっしゃいました。

 狩野先生は倫理委員長の立場から、APA(米国精神分析学会)とIPA(国際精神分析学会)の規定を紹介されており、これは良い、悪いといった素朴な意味での感性も大事にし、そうした物事について断定的になるのではなく考える能力を持っていることが前提となると締めくくられています。そして、考え続け討論することの必要性に言及されています。

 狩野力八郎先生が2006年に「精神分析的に倫理を考える」という論文を書いていらっしゃるそうなので、そちらも読んでさらに考えていきたいと思います。

 うーん、、、このテーマに引っかかっていることは重要なのですが、肝心の治療構造論に関する論文が進まないのは困ったところです、、、

 

2023年8月11日

NAPI主催『編集長に聞く』」

 今日はNAPI(富樫公一先生会長)主催の勉強会、「編集長に聞く」に参加いたしました。精神分析学会の学会誌、精神分析研究の編集委員を20年務められ、編集長のご経験もある藤山直樹先生の講演と、後半は富樫公一先生との対談でした。対談のテーマが「論文執筆における同意と偽装」ということで、どんな話がでるのかと冷や冷やしておりました。

 勉強会に先駆けて、藤山直樹先生の論文、精神分析研究vol62.No1(2018年)の「臨床素材を書くことー精神分析的な学術論文において」と、vol62.No3の小此木賞受賞記念講演「誰に向けて書くのかー対話としてのPsychoanalytic writing」というのを事前に予習してみました。のちに、Vol52.No3(2008年)に掲載されている小シンポジウム特集が「精神分析的実践の報告におけるdisguiseとconsent」であったことを知り、まさに今日の対談テーマではないか!!と気づいたところでした。

 詳細なことは語れませんが、藤山先生はconsentとらない、(クライエントが私のことを書いているとわかっても)他の人にはわからないように書いてくれているなと思えるように書くという主張でした。富樫先生は真逆で、書くことをクライエントの了解もとるし、内容もすべて相談して二人の作品として出す、というようにおっしゃっていました。富樫先生はアメリカにいらしたので、アメリカでは大半がそのようにされているとのことです。訴訟の国ですからね、、、

 参加者の先生が、別の学会で本人とわからないように変えたところがあります、と書いたところ、「真実ではない論文は載せられない」と言って落とされたとおっしゃっていました。そのあたりは学会によって、まだまだ千差万別なんでしょうね。藤山先生は「いろんな査読者がいるから、○○先生はひどい人にあたったんだね」と慰めておられたのが印象的でした。←またまた藤山先生の意外に優しい一面をみることができました。

 

2023年8月9日

「誰がために医師はいる

 私はアルコール依存症専門病院に勤めていたことがあったので、薬物依存もアルコール依存もおなじ依存症だと考えていました。松本俊彦先生は、薬物依存、自殺企図、自傷などで有名な先生ですが、松本先生の最近のご著書「誰がために医師はいる」では、まずご自身の思春期を語るところから始まります。そして、薬物依存に関わるようになった始まりは、自分の希望ではなくて「不本意な医局人事のせい」と告白されています。しかし、臨床経験を通じて、薬物依存症が最も好きな臨床になったそうです。

 薬物依存症専門病院で出会った患者さんは、覚せい剤を数日間連続で使ったときだけ、一時的に「警察に尾行されている」「盗聴さされている」といった妄想を体験するものの、覚せい剤使用をやめて1,2日たてば妄想も速やかに消えてしまいます。そういった症状を体験せず、20年以上覚せい剤と「よいつきあい」を続けてきた人もいます。血液検査のデータも正常です。脳委縮もない。アルコール依存症者は、脳委縮があり、内臓はぼろぼろで、病気のデパート化しているのに対して、薬物依存症者は健康で、薬で治るものでもないということす。

 しかし、病院を受診するのは、薬物を止めるのが難しく、それでも止め方を教えてほしいからとのことです。薬物をやめることは簡単でも、止め続けることは難しいといいます。それは、薬物による苦い失敗はすぐ忘れてしまい、鮮明に覚えているのは薬物を使いはじめの、はるか昔の楽しい記憶だからだそうです。

 自助グループに参加していくことが大切なのは、アルコール依存症と同様で、NA(ナルコティックス・アノニマス)というグループがあるようです。ダルクも有名ですよね。

 松本先生は「薬を処方する以外に何ができるのか」を死に物狂いで考えたそうで、援助者としての引き出しを増やしていった、と書かれていますが、どこか心理臨床家が目指しているものと近いものを感じますね。

(文献:松本俊彦(2021)誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論.みすず書房.)

 

2023年8月9日

「治療構造について②」

 治療構造論の歴史について、私は大きく誤解していたようです。私が見聞きしてきたものには、小此木先生は精神分析を日本に根付かせるために、治療構造論を大事にし、それを守るべきものとしての姿勢を崩さなかった。そして(論文や著作を読んだりしていますと)、小此木先生がそのようなご自身の立場に葛藤的だった、というものがあります。今日までそれを信じ切っていて、小此木先生は葛藤を表に出すことは控えめになさっていたのだろうと考えていました。

 そのため、昨今の中堅心理臨床家が主張しだしている治療構造論に関する私見を、割と新しいものと考えていました。

 今日、小此木啓吾先生の古稀のお祝いのときの学術集会での講演と討論の記録を再生して本にされた、小此木啓吾編著(2003)「精神分析のすすめ」創元社.を読んでいたところ、そうではないということ第2部第2章を読んで知ることができました。

 そもそも治療構造というコンセプトを小此木先生が得たのは、古澤平作先生が取り上げられたエクスタインの論文からということでした。古澤先生がご存命のときから、病態と年代によって治療構造をどのように修正、適応していくかという治療構造論が小此木先生の大きな課題となったそうです。すでに一度出来上がった治療構造を患者さんはそれに従い、守らなければならないのか、、修正するのかという議論が展開されていたと述べておられます。

 治療構造論について、治療者が患者に対して一方的に与えるものなのか、あるいは患者の側から選ぶ自由がどこまであるかという議論が、新しい展開の可能性を含んでいるとのことです。むしろ患者と治療者双方が相互モデルの中で、どのような治療構造を形成していくかという視点も大きな役割を果たすように思う、と記述されています。

 小此木先生亡き後、治療構造を教条的なものとして捉える学派(あるいは精神分析家)が主張を強くし、私が精神分析学会で、患者との間で治療構造を変えた事例とその意義を発表したときは、「そもそも治療構造を変えたのがよくない」と司会者に一蹴されたことは記憶に新しいです。小此木先生ご自身が、岡野先生の治療柔構造論を議論の俎上にのせようとされていたように、治療構造論に関する議論は、昔からなされていたことであり、かなり重要な問題なのだということを認識いたしました。

 なんにせよ、積読していた私もよくないのですが、、、

 

2023年8月8日

「親子並行面接について②

 以前の記事「親子並行面接について①」で書いたのですが、親面接は非常に難しい実践だと思います。個人心理療法よりも難しいことも多いとも思っています。しかし、大学院などでは親子並行面接において、子面接を大学院生が担当し、親面接は臨床心理士の資格を持っているカウンセラーや教員が担当することが多いのではないでしょうか。しかし、大学院生が就職してからは親面接を担当することもままあるのではないでしょうか。

 なぜ、大学院では院生が親面接を担当することが少ないのでしょうか、、、

 私は時に、大学院のカンファレンスで「親面接を院生に担当してもらったらどうですか」と言ったりするのですが、何を言っているんだという反応を示され、それは無理でしょう、ということになります。たしかに、前述したように親面接は個人心理療法よりも難しいことが多いと実感していますし、院生としても荷が重いと感じることが多いかと思いますが、せっかくの教育研修機関にいるのに、経験できないことはもったいないなとも思います。

 以前、心理教育相談室(大学院生の実践、教育を行う臨床の場)に勤務していたのですが、そこでも親面接は資格取得者が行い、院生は子面接を担当していました。博士課程の臨床心理士資格をもった学生については、時に親面接を担当することはありましたが、それもまれでした。個人心理療法(カウンセリング)でも、若い院生が、年配の相談者を担当することに不安を訴えることもありますが、実際にスーパーヴィジョンを受けながら心理療法が進むにつれて、不安は解消されていくものと経験しています。

 また、相談者である親御さんが「私のことはいいから、子どものことをカウンセラーに見てほしい」とおっしゃることも意外にあるものです。

 以下に、親面接に役立つ本を挙げておきたいと思います。

①心理相談と子育て支援に役立つ親面接入門(吉田弘道著)福村出版

 →事例を通して、親子並行面接の親面接について書いてある本です。親子並行面接の流れも事例を通して書いてあり読みやすいと思います。

②親面接の実践 子と親を共に支える心理療法(山口素子著)創元社

③心理臨床の親面接 カウンセラーの基本的視点(永井撤著)北大路書房

 このテーマはまだまだ続きます、、、 

 

2023年8月7日

「スーパーヴァイザーの選び方

 皆さんはどうやってスーパーヴァイザーを選んでいらっしゃいますか。

 例えば、著作や論文を読んでいいなと思った先生にお願いするとか、学会発表を見て、惚れ込んだ先生に頼むとか、大学院で指導してもらった先生に頼むとか、いろいろあるかと思います。

 よく聞くことですが、臨床心理士会の調査によると、スーパーヴィジョンを受けていないという心理臨床家が結構多いとのことです。それを初めて聞いたとき、どうして受けないのかなと、受けない理由が知りたくなりました。というのも、私自身、大学院では指定されたスーパーヴァイザーがいらっしゃいましたし、就職してからは、担当するケースが多いため、心理療法(カウンセリング)のスーパーヴァイザーを3人の先生にお願いしていました。また、心理検査(特にロールシャッハテスト)については、一人の先生にスーパーヴィジョンをお願いしていました。

 スーパーヴィジョンを受けないということは、これまでのスーパーヴィジョン経験があまりよいものではなかったのかもしれません。幸いにして、私が受けたスーパーヴィジョンは、自分自身が気づかないことに気づけたり、やっていこうという元気や勇気をもらえるものでしたが、中にはナルシスティックで、高圧的で、教条的なスーパーヴァイザーもいるでしょうし、しばしばスーパーヴァイジーが服従を余儀なくされるということもあるでしょう。

 岡野(2003)は、「誰にも助言を受けることなく試行錯誤で人とかかわる過程で、さまざまな現実に突き当たって失敗することが、一番のスーパーヴィジョンかもしれない」と指摘しつつ、「しかし、あなたがあくまでも精神療法の専門家となるのを目指すのであれば、適当なスーパーヴァイザーを持ち、そのもとでフォーマルな訓練をつむことは、必然となります」と言っています。

 大事なことは「このスーパーヴァイザーが自分にとって本当に役に立っているのか?」ということです。岡野がいうには、スーパーヴァイザーが「あなたの患者さんの治療のことは、ある意味であなたが一番知っていることです。私にできることは、スーパーヴィジョン(監督)ではありません。あなたの治療に関する報告が私にはどう見えるかということ、つまりエクストラヴィジョン(別の見方)をあなたに提供することです」と言えるだけの柔軟性を持っているかどうかで良し悪しを大まかに判断できるそうです。

 今のあなたにとって必要なスーパーヴィジョンはどんなものでしょうか。

(文献:岡野憲一郎(2003)自然流精神療法のすすめ.星和書店.)

 

2023年8月7日

「不条理について

 前回は、カミュの「不条理と自殺」について書きました。この作品は「シーシュポスの神話」という著書の中に入っているのですが、「シーシュポスの神話」では,カミュの主張が神話の形を借りて明確に示されています。

 シーシュポスは大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けました。シーシュポスは山頂に向かって岩を運ぶのですが,山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまいます。しかしシーシュポスは,意思をもっていきいきと岩を運び続けます。

 カミュがいうには、「シーシュポスは,自分の岩のほうへと戻りながら,あの相互につながりのない一連の行動が,かれ自身の運命となるのを,かれによって創り出され,かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき,やがてかれの死によって封印されるであろう運命と変わるのを凝視しているのだ」と。

 カミュは「運命が不条理であることを完全に受け入れ、尚且つ不条理な運命に諦めず反抗せよ」という思想を持っていました。そして、「人生は無意味であればあるほど、よりいっそうよく生きられる」という思想も持っていました。

 私はカミュの作品が好きですが、皆さんはどう感じられたでしょうか。

 

2023年8月7日

「人生は生きるに値するか

 クライエントさんから時に問われることがあります。「なぜ生きなければならないのか」「どうして死んではいけないのか」

 生死に関する問いは,臨床歴を何年重ねても私を苦しめ,無力で小さな一人の人間であることを思い知らされます。

 カミュ(1969)は『シーシュポスの神話』の中の「不条理と自殺」において,「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する,これが哲学の根本問題に答えることなのである」と述べています。そして,ひとが,この世に存在することをやり続けている理由の一つとして習慣があるとし,「みずから意志して死ぬとは,この習慣というもののじつにつまらぬ性質を,生きるためのいかなる深い理由もないということを,日々の変動のばかげた性質を,そして苦しみの無益を,たとえ本能的にせよ,認めたということを前提としている」と記しています。

 さらにカミュは「みずからの手で死んでゆく人びとは,自分の感情の斜面にしたがって,その最後まで滑り落ちてゆくのである」とし,「死に至るまでのつらぬかれた論理が存在するか」と問題提起し,みずから死んでゆく人びとを「かれらは自分の生命というかれらのもっとも貴重な持ち物を放棄した」と批判しています。そして真の努力とは「可能なかぎりその場に踏みとどまって,この辺境の地の奇怪な植物を子細に検討することなのである。不条理と希望と死とがたがいに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を,特権的な立場から眺めるには,粘り強さと明徹な視力とが必要である」とし,「精神はそのさまざまなフィギュアを分析し,つづいてそれを明示して,みずからそれをふたたび生きることができる」と締めくくっています。

 私がこれまでに出会った死にとらわれている人々は,「死に至るまでのつらぬかれた論理」を持ち合わせていたのでしょうか。生きがたい生をどう生きていけばよいのかをどのように考えたのでしょうか。

 私の"生きること”についての問いは続きます。

(文献:Camus,A.(1969)「不条理と自殺」『シーシュポスの神話』新潮文庫.)

 

2023年8月4日

「事後性ー記憶は書き換えられる

  フロイトは亡くなる二年前の1937年に、精神分析における記憶の回想は、分析者と被分析者との間の共同作業による再構成であるという考えを発表しました。この再構成は、分析者、被分析者二人で形成していく対話的な再構成であり、物語化であるという考えです。さらにフロイトは、記憶について、回想する時点が推移するにつれて、ある種の相対的な修正変化がその回想過程で起こることに気づいていました。このフロイトの記憶に関する考えは、「事後性」と呼ばれます。

 事後性とは、一定時点でのある体験、印象、記憶痕跡がそれ以後の時点で新しい体験を得ることや、心の発達や成熟とともに新しい意味や新しい心的な作用、影響力を獲得する心的過程をいいます。

 フロイトの考えに沿って、ユングは、遡及的幻想という用語を用いました。大人は、もろもろの過去を大人になってから抱く幻想の中で再解釈するのであって、それらの幻想は、彼が現在とらわれている問題の数だけ存在し、それぞれがそれぞれの問題を象徴的に表現しているといっています。

 一般の健康な心の場合には、出来事や状況の経験、身体的成熟によって事後の書き換えが段階的に起こります。一方、心的外傷の記憶は、それが体験された瞬間に書き換えを進める文脈に統合されないままになってしまったもので、書き換えられないまま無意識の繰り返しを受けています。ダイナミックな事後作用を受けられなくなってしまって、無意識に反復を繰り返すところに、心的外傷の記憶の特徴があります。

 さらに、精神分析治療の目的は、書き換えられていなかった記憶の書き換え、意味の広がりが行われる事後性の営みであり、喪の仕事もまたこの観点から見ると同じような心的機能を担っているといえます。

 (文献:小此木啓吾編著(2003)「事後性ー記憶は書き換えられる」『精神分析のすすめ』創元社.)

 

2023年8月4日

「フロイト的態度とフェレンツィ的態度

 小此木啓吾先生は、治療者の内的態度の概念化として、「フロイト的態度」と「フェレンツィ的態度」という概念対を新しく創り上げました。フロイトとフェレンツィとを対立的にとらえる視点は、日本の精神分析コミュニティに広く受け入れられました。端的にいえば、フロイト的態度が中立性を重んじた父親的態度、フェレンツィ的態度が患者のニーズに適応する母親的態度と受け入れられた面があります。ともすると、フロイトが極めて正統的分析的であるのに対し、フェレンツィが修正的支持的であるというニュアンスがかもし出されています。

 藤山(2004)は、このような見方に新しい視点を付け加えました。藤山によると、フェレンツィのイメージは、重い病理をどうやって分析的に扱いうるのか、苦闘する孤独な求道者であり、フェレンツィがフロイトに言いたかったのは、フロイトが教育的態度で分析を行っていること、自身のこころを使うことをしていないことへの問題提起ではないかと指摘しています。フェレンツィは、フロイトによる分析が十分ではなかった、陰性転移が扱われなかった、とフロイトを攻撃しています。

 フロイトが治療者と患者の間に、よい関係を打ち立てるのが先だ(治療同盟という陽性の関係性の維持を強調)と考えたのに対して、フェレンツィはあくまでも解釈的な作業を維持することを主張しています。これはのちに、アンナ・フロイトとクラインとの対立にも関係しています。アンナ・フロイトが子どもとの陽性の関係の共有を重視していたのに対し、クラインは徹底的に解釈的に子どもと向き合うことを主張しました。フェレンツィは、クラインの最初の分析家でもありました。

 その後の精神分析が、徹底した教育分析というフェレンツィの主張した方向にいったのは興味深いものがあります。

 フェレンツィは晩年に「大実験」と言われるものを行いました。ある患者に対して、患者が望むなら週7回以上、1日何回でも、1回何時間でもセッションを無制限に行うというものです。精神分析家の献身を最大限に提供することにより治療が進展するのかという果敢な試みでもありました。その事の顛末は2000年に邦訳された「臨床日記」に詳しく記載されていますが、患者の極度の退行、精神分析家の生命をも脅かす労力、そして不完全な治癒という結果となっています。

 (文献:藤山直樹(2004)「フロイト的態度」と「フェレンツィ的態度」を再考する.精神分析研究,48(4),394-397.)

 

 2023年8月4日

「武田専先生」

 日本の精神分析(的心理療法)の実践を牽引しているのは、日本精神分析学会だろうと思います。日本の精神分析の歴史は、ウィーンで訓練を受けて帰国した古澤平作先生が、1934年に東京で精神分析クリニックを開業された時点から始まったと考えられています。戦前・戦中に孤立的に臨床実践をおこなっていた古澤先生のもとに、戦後になって、土居健郎先生、小此木啓吾先生、西園昌久先生、前田重治先生、武田専先生といった精神科医が集まりました。日本精神分析学会は、古澤先生を中心に1955年に創立されました。古澤先生から教えを受けた上述の精神科医たちは精神分析家となって次世代を教育・訓練し、精神分析学会を支え発展させてきました。現在では、多くの臨床心理士の参加を得て、心理臨床の分野でも精神分析学会が指導的な役割を果たすことを期待されています。

 私が心理臨床家として最初に勤めた病院が、武田専先生が開業された武田病院という単科精神科病院でした。公益法人精神分析武田こころの健康財団を立ち上げられて、精神分析学およびこれに関連する精神療法学、心理学、精神医学等の科学分野の研究を助成、振興を図っておられました。若手の先生方の研究助成も行っており、西見奈子先生も助成金を得られたと聞いています。

 武田専先生は非常に豪傑でユニークな先生で、患者さんにも非常に人気がありました。自立的に生活することが難しい患者さんがいらっしゃると、そのまま帰すわけにはいかず、「入院させてやれ」とよくおっしゃっていました(生活保護の受給者の方は入院費がかかりません)。スタッフに対しても分け隔てなく接しておられ、昼食のために食堂にいくと、いつも周りのスタッフに声をかけておられました。私がお会いすると、とても早口な先生なので理解できないことも多かったですが、いつも精神分析の歴史(時にはゴシップ)を明快に語ってくださいました。当時の私は臨床歴1年目~7年目の初学者だったので、武田専先生のおっしゃる、精神分析学会の話が、ほとんど理解できていませんでしたが、今お会いできたら、その頃よりはお話を理解でき、楽しいひと時を過ごせたことと思います。

 武田専先生は小説家になりたかったとおっしゃっていて、いろいろな著作があります。不器っちょで筋骨薄弱、おっちょこちょいで鼻っ柱の強い江戸っ子らくだ君が主人公のお話もよく書かれています。

 私が武田専先生の著作の中で面白いと思っているのが「精神分析と仏教」(新潮選書)で、後半になると仏教から離れて、精神分析学会の裏側といいますか、○○先生があの時こうしたといったことが詳細に記述されていて、ここまで書いて大丈夫なのかなと心配になります。ですが書かれた方も、武田先生だったらと許されるのだろうなとも思います。それにしても非常に素晴らしい記憶力も人間味もお持ちの先生だったと思います。 

 

2023年8月4日

「トラウマ

 最近、トラウマの本をたびたび目にします。言葉は悪いですが、トラウマ流行といった感じも受けます。

 松木邦裕編集(2021)「トラウマの精神分析的アプローチ」という本では、松木志塾に通う臨床家が、思い思いの事例を載せていますし、今年の8月には、上田勝久・筒井亮太先生の「トラウマとの対話 精神分析的臨床家によるトラウマ理解」という本の出版が控えています。「身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法」という分厚い名著もありますし、宮地 尚子先生の「トラウマ」(岩波新書)も素晴らしい本です。

 トラウマとは心的外傷、つまり「心の傷」を指します。心的外傷後ストレス障害(PTSD)とは、トラウマになる圧倒的な出来事(外傷的出来事)を経験した後に始まる、日常生活に支障をきたす強く不快な反応です。心的外傷後ストレス障害(PTSD)では、命が脅かされる出来事や重篤なけがによって、激しい精神的な苦痛が長期間続くことがありますし、その出来事を繰り返し再体験し、悪夢を見たり、それを思い出させるものをすべて避けたりします。

 それでは、トラウマの治療はどういうことになっているのでしょうか。治療法としては、精神療法(曝露療法や支持的精神療法など)や抗うつ薬などがあります。

 精神療法についてですが、外傷的出来事から続く恐怖を消すのに役立つ曝露療法と呼ばれる認知行動療法の一種が用いられますことがあります。しかし、曝露療法では、心理臨床家が患者に対して、過去のトラウマと関連する状況に自分が身を置いている様子を想像するように指示しますので、心的外傷を体験した患者は、再び心的外傷を体験することに特に過敏になっていることがあるため、治療があまりに速く進み過ぎると、中断してしまうことがあります。個人的には、これはかなりきつい精神療法だと思います。

 また、眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR法)は、精神療法家の指の動きを追いながら、トラウマ体験にさらされる状況を想像するよう患者に指示する治療法です。この眼球運動自体が過敏な反応を解除する脱感作に役立つと考える専門家もいますが、EMDR法はおそらく、眼球運動ではなく、主に曝露を行うことで効果を発揮すると考えられています。EMDRをやっている知人に聞きますと、非常に万能的に思われがちなEMDRですが、効く人と効かない人があるとのことです。あまり治療が進展しない人もいるとのことですし、EMDRを希望されていらした方でも、EMDRが効かない人が多いとのことです。

 より広く探索的な精神療法ということで、支持的精神療法や精神力動的(精神分析的)精神療法も役立つことがあります。

私の考えでは、まずは自分の身の安全、安心が保証されていることが大前提で、そのための環境づくりから始めるのが必須と思います 。そして、ご本人のペースで、少しずつ現実生活に参加したり、いろいろな思いを語ったりしていくことがいいのではないかと思います。治療者が決してあせらず、ご本人のペースを見守っていくことが大切だと痛感しています。

 

2023年8月3日

「治療的柔構造論の源流

 私は、治療的柔構造という概念を、岡野憲一郎先生が2008年に上梓された「治療的柔構造~心理療法の諸理論と実践との架け橋」で知ったのですが、1990年の小此木啓吾先生の還暦をお祝いする記念出版「治療構造論」の中で、大野裕先生が『治療的柔構造ー共有錯覚から心的現実へ」という論文をお書きになり、2004年の精神分析研究総特集「小此木啓吾先生追悼」の中でも、大野裕先生が「治療的柔構造と小此木啓吾先生の思い出」という論考を寄せておられることを知りました。

 岡野憲一郎先生の「治療的柔構造~心理療法の諸理論と実践との架け橋」の第13章に、大野裕先生と岡野憲一郎先生の対談が載っていますし、資料として大野先生の1990年の論文も掲載されています。岡野先生は1986年から2004年まで海外にいらしたので、大野先生の論文についてご存知なく、珍しくいいアイデアを思いついた、ヤッターと思ったところ、1990年の大野先生の論文に気づかれたとのことです。

 今ではアメリカから認知(行動)療法を取り入れられた方として有名な大野裕先生ですが、もともとは小此木啓吾先生の愛弟子で、アメリカ留学も精神分析を学ぶために行かれたそうです。そうして、認知療法に出会い、精神分析とそうかわりないものとして受け入れられたようです。

 2004年の精神分析研究総特集「小此木啓吾先生追悼」の中で、大野先生は、「治療構造というと時間的、空間的に決まった外的な枠組みを思い浮かべるが、治療的にはそういった外的な枠組みよりもむしろ患者と治療者がそれぞれの心の中に作り上げる心的な枠組みの方が意味があると私は考えた」と記載されています。さらに「心的治療構造は治療関係を維持し発展させていくために重要な役割を果たしているが、それが可能になるのは物理的治療構造がある程度安定している場合のことである。外的な環境が一定であれば、心の中の関係が不安定になっても、また均衡が取り戻されるまで不安定を抱えることができる。心的治療構造を外的な治療構造はお互いに相補的な関係にあり、そうした環境にかかえられながら患者は安定した関係性を心の中に内在化できるようになっていく」と書いておられます。

 しかし、治療的柔構造は、日本の精神分析あるいは認知療法をやっている人には受け入れられず、「柔構造って当たり前だ」という反応と「そんないいかげんな話でいいのか」という反応にわかれ、柔構造という概念の持つ意義はなかなか認められないと岡野先生が語っておられます。確かに、精神分析学会で、患者さんと話し合って治療構造を変化させた事例などを発表した場合、「あー!治療構造を変化したから良くないんだ」とそこばかりに固執され、議論がなされないことをしばしば経験しましたし、見聞きしてきました。なぜそのように教条的になるのか甚だ疑問ですが、治療構造については、これからの大事なテーマとして考えていきたいと思います。

 

2023年8月3日

「論文について思うこと

 今年に入って、以前よりも事例論文や書籍を読むようになったのですが、事例と理論がちぐはぐな論文が意外に多くみられます。昔だったら、自分の理解力が足らない、理論の勉強をもっとしなくては、と自責的になっているところですが、最近は、無理に事例と理論を結び付けようとしているな、と思うようになりました。

 何が変わってそうなったのかは不明なのですが、精神分析研究という学会誌がありまして、以前でしたら研修症例は読みませんでした。研修症例というのは、まず学会で発表するのは研修症例からと決まっていて、割と初学者の方が、課題を抱えている事例についてベテランの先生に助言をしてもらえる、という発表形式です。そのため、文章が中堅以降の先生方ほど難しくなく、読みやすくて理解しやすく、治療者の戸惑いなどが率直に伝わってきます。一方、原著論文という、なかなか採用されない論文があるのですが、著者のオリジナルな主張が提起されているというのが条件ですので、新しい理論化が求められていると思われます。

 そうなると、事例は理解しやすいものであっても、新しい理論化のところで無理や、事例との乖離が生じているように感じてしまいます。個人的には、理論も大切だけれども、無理やり理論を打ち立てたり、事例と結び付けたりすることにエネルギーを注ぐよりも、クライエントさんとの間でどのようなやり取りがあり、セラピストが何を感じていて、どのようにセッションが進んでいるのかに興味があり、その関係性をつまびらかにしている論文の方が、伝わってくるものが多いと思います。

 精神分析研究では、事例は淡々と記載されており、考察や理論に力が入っているものが多いように思います。知性化が過剰に見えます。おそらく、編集委員や学会長などが、そのような形態を求めているのかなと推察しています。

 

2023年8月2日

「強迫観念

 強迫観念は、主体が受け入れられない、あるいは嫌悪を感じるような、繰り返される望ましくない思考、イメージ、衝動です。たとえば、「誰かによって子供たちが害を受ける」「他人に危害を加える」「聖霊が自分を見放した」などといった強迫観念に苦しんでいたりします。強迫観念は精神的に負担を強いるものです。強迫観念に対する葛藤は孤独で、個人的な闘いです。

 強迫観念のテーマは主として三つあり、その思考が受け入れがたいほどに攻撃的な、性的な、冒涜的な内容です。患者はこれらの望まない、不快な、そして明らかに不可解な衝動、イメージ、思考によって苦しんでいます。 

 強迫観念を体験する患者は、その思考が自分の生み出したものであると認識しており、かつ自我異和的である(自分の主観に反している)と自覚しています。患者は一般に強迫観念に対して抵抗します。思考をブロックしたり、その考えに反対したり、抑制したり、議論したり、拒否したりといったことを試みます。患者は自己の主観や倫理観を疑問視し、自分が信頼できない、邪悪で気味の悪いもの、あるいはすでに狂い始めていると自覚し始めることもあります。その思考はあまりに恥に満ち、混乱をかきたてるものであるため、患者はそれを隠そうと懸命になったり、そのような受け入れがたい不快な思考を持つことに罪の意識を感じたりします。

 強迫観念に対する治療はいくつかあり、認知行動療法、精神分析的心理療法、森田療法、支持的精神療法などがあります。下記の文献は、認知行動療法に関するものですが、アセスメントの手順や面接にあたってのツールキットなどが取り上げられており、非常に参考になります。

 精神分析的な心理臨床家としては、成田善弘先生が早くから強迫性障害を取り上げておられ、「強迫性障害―病態と治療」(医学書院)、「強迫症の臨床研究」(金剛出版)が非常に参考になります。

 (文献:Stanley Rachman:The Treatment Obsessions.:OxfordUniversity Press,2002(作田勉監訳『強迫観念の治療』世論時報社,2007.)

 

2023年8月1日

「オンラインカウンセリングと対面カウンセリング 

 これまで十年以上、(神奈川で)対面カウンセリングを行っていたクライエントさんがいらっしゃるのですが、私が山梨に定住したものですので、昨日はオンラインでお会いすることになりました。

 ずっと対面を希望されていて、今回おためしでオンラインに挑戦してみました。ご本人の希望により、私は顔をだして、ご本人は声のみなのですが、非常に緊張されたとのことでした。対面のときは、あ、うんの呼吸でよくお話になって、45分があっという間なのですが、オンラインになるとそうはいきませんでした。他の方で、十年以上、対面でお会いしていたのをオンラインに変えた方もいらっしゃるのですが、その方は対面のときはよく遅刻されたのですが、オンラインの時は遅刻もせずにいらっしゃいます。話される量も変わらず、緊張もされないようです。

 やはり、オンラインなのか、対面なのかというのは人それぞれですね(当たり前なのでしょうが)。昨日初めてオンラインだった方は、オンラインで5分くらいで限界がきたようでした。たまたま、私が今日明日と神奈川にいくので、神奈川で再度お会いすることにしました。その時はどんな様子でいらっしゃるのでしょうか。緊張がぶり返したりされるのか、心配ですね。

 オンラインだと、電波の状況なのか、クライエントさんの声がハウリングしたり、私の声がハウリングしたりすることがあります。ソフトバンクの置き型のAirというのを使っているので、それが今一つなのかもしれません。スカイプか、Zoomか、グーグルのmeetかを用いるのですが、どれも一長一短があります。はじめての方ですと、オフィスにいらっしゃるのが可能であれば、一度はお会いして対面で雰囲気をお互い知る、というのがいいように思いました。

 

2023年7月31日

「治療構造について① 

 オーソドックスな心理療法(カウンセリング)では、治療開始時にセッティングやルールについていろいろな取り決めがなされます。たとえば、カウンセリングを何時から何分間行うのか、部屋はどこで行うのか、どのようなやり方で行うのか、料金はどうするのか等です。カウンセラー(セラピスト)と相談者(クライエント)がどのような形で交流するのかという様式を「治療構造」といいます。

 心理療法において、治療構造の重要性をはじめに指摘したのはフロイトです。フロイトは「分析治療の開始について」という論文の中で、心理療法の初期のプロセスをチェスの定石に準え、クライエントが話をするという方法を守ること、時間を一定にしてできるだけ厳格に守ること、応分の治療費を課すこと、お互いの座る位置を一定にすることなどを強調しています。

 今日はお休みでしたので、治療構造について考えようと思い、いろいろな文献や本を検索したり読んだりしてみました。「週1回、45-50分」という設定を、多くの心理臨床家が自明のものと考えています。しかし最近では、病院や施設の事情により、週1回、45-50分という設定がなかなか取れず、2週に1回で30分、月に1回30分という設定も多くなってきたと言われています。

 日本の精神分析の始祖といえる古澤平作は、海外で本来、週4回以上で行われている精神分析を、日本では週1回で始めたと言われています。これまでは、なぜ「週1回、45-50分」が定石なのか、週2回や、10日に1回や、30分や90分ではないのか、といった疑問を抱く人はあまりいなかったように思われます。また、「週1回、45-50分」にどのような治療効果があるのかということもあまり議論されていないと思います。

 しかし、以前にも書きましたように、精神分析学会の中では、精神分析(週に4-5日行う)と、精神分析的心理療法(週に1-3回行う)の違いを議論するようになり、最近ではこの両者は全く異なった実践であり、治療機序も全く異なると言われています。以前は、精神分析が金で、精神分析的心理療法は合金であると言われたこともあり、精神分析の方が優れていると思っていた方も多かったと思いますが、今では週1回45-50分の構造で、何ができるのか、どういう技法を用いるのか、何が問題になるのか等が議論されており、さらに週1回や2週に1回、あるいは月に1回の心理療法の実践をどうしていけばいいのかという論考も見られるようになってきました。

 長くなってきたので、今日はこのくらいにいたしまして、また引き続きこのテーマを追っていきたいと思います。

 

2023年7月30日

「悲哀と喪 

 1917年にフロイトが、「喪とメランコリー」という短い論文を公刊し、そこで喪失、死別、喪の精神分析的な探求をはじめました。私たちは、非常に重要な相手やその人との関係には膨大な心的エネルギー(リビドー)を投入します。もし誰かを失ったら、その投入したエネルギーは行き場がなくなり、残された人に激しい痛みを与えた挙句、失った人に対する、強烈でむなしい切望を生みます。残された人は、世の中やほかの人への関心を喪失します。

 喪が進むにつれ、痛みは軽減します。そして喪が完了すると、人は再び世の中に関わり、他の人との関係に投じるために用いるエネルギーを持つことができます。

 一方、失われた対象の取り入れということがあります。それは、メランコリーな人が、あたかも失われた人が実際に今や自分の一部であると無意識に信じ込んでいるかの如くに振る舞うことです。これは、失われた人との関係が極めてアンビバレントである場合に起こりやすいです。その場合には、人は痛ましいまでに自己批判的になります。もし、失った人の内的な心像にしがみつくなら、新しい関係に十分にエネルギーを注ぐという残された人の自由が邪魔されることになります。

 喪の作業がうまくいくと、失った人のなんらかの意味で内的な心像が遺族に残されることがわかっています。内的な心像は、なぐさめとなる記憶や空想となって立ち現れるのかもしれません。急性悲嘆による苦痛や麻痺状態から自分自身を解放するためには、喪の過程が完遂し、喪失の現実と含意が深く受け止められることが必要です。

 北ヨーロッパとアメリカの大半では、最低以上の喪はみっともないものとされていますが、悲嘆について研究した人たちの多くは、ほとんどの遺族は自らを解放するには、十分に喪を行わねばならないといっています。

 (文献:Kahn,M.Basic Freud:Psychoanalytic Thought for 21st Century.Massachusetts.:Perseus Books,2002(妙木浩之監訳『ベイシック・フロイトー21世紀に活かす精神分析の思考ー』岩崎学術出版,2017.) 

 

2023年7月30日

「傷ついた癒し手 

 心理臨床家は、自分のパーソナリティや問題が、心理療法において不必要な妨げにならないように、自分の葛藤領域や他人への反応の仕方を意識しなければならないと言われています。他者を援助することばかりに気を取られて、実は自分自身が援助を必要とする危機的状態にあるという認識は持ちにくく、その可能性は否認されやすいとも指摘されています。

 傷つきを有するものにとっては、自らの傷つきと向き合い、それを克服したり、そこから回復したりしていくことが求められます。心理臨床家が自分自身の傷つき体験に縛られて、今、目の前にいるクライエントもかつての自分と同じ心境であるはずだと思い込んでしまったら、そこに心理療法の根幹である共感は生起しようがありません。

 心理臨床家は、絶え間なく傷つく可能性の中を生きています。そのような数々の傷つきを行き抜き、克服したり回復したりしながら、クライエントのために十全に機能し続けることが求められています。

 「傷ついた癒し手」という概念があり、「癒すことのできない傷を負った癒し手がおり、矛盾することではあるが、癒しの力をもたらすのはまさに傷を負ったことそのものだ」というSedgwickの言葉があります。心理臨床家として「傷ついた癒し手」に最初に言及したのは、分析心理学の祖であるC.G.Jungだと言われています。Jungは、「自分自身の傷つきの分しか、医師は治すことができない」「傷ついた癒し手のみが癒す」と述べています。心理臨床家が傷ついていればこそ、クライエントの感じる痛みを自らの傷に照らして感じ取り、そこに共感が生じるとも考えられています。

 (文献:林智一(2022)心理援助者養成教育における「傷ついた癒し手」というジレンマを指導者はどう考え、いかに対応するのかー文献展望をもとにした一考察ー.香川大学教育研究,19, 47-58.) 

 

2023年7月29日

「こころの科学 

 こころの科学230号、2023.7は、「心理療法のエッセンス こころに動きをもたらすもの」です。

 山崎孝明先生の『凡庸さにとどまる』、工藤晋平先生の『「町のセラピスト」考』が読みたくて購入いたしました。

 中堅の心理臨床家であり、ご活躍中のお二人が、心理療法をどのように考えているのかが知りたかったのです。山崎先生は修士を出られた当時は、精神分析にこだわりを持っていて、本で知識を蓄え、空想を膨らませ、治療者はクライエント(患者)が考えもつかなかったような無意識についての解釈を、特に治療者と患者のあいだの関係性を扱う転移解釈を投与してくれると思い込んでいたそうです。

  三人の治療者にかかり、最初のセラピストは転移解釈をしませんでしたが、この治療がなければ社会人としてうまく機能できていなかったろうと振り返っておられます。二人目の治療者は精神分析家で、解釈も多く投与されたそうで、精神分析の専門的な知があふれていたそうですが、この治療はドロップアウトされたそうです。三人目の治療者は、ほとんど言葉を発しなかったそうで、それでも主訴が改善し、自由に思考し、情緒を感じられる能力が増大したそうです。

 結局のところ、山崎先生は、患者の個を大事にし、関心をもち、専門知を偏重せず、患者から学ぶことが、心理療法という一筋縄ではいかない実践をよきものとするために必要だと考えられているようです。

 工藤晋平先生は、心理療法は内的な世界を純粋な形で取り扱うことができるという精神分析的なアプローチではなく、日常生活においてその人が経験することができるように、環境の側に委ねることである。生活を信頼することである。セラピストがしたことは、この人を変えてくれる生活(環境)中に連れていくことであった、と述べられておられました。

 昨今、中堅の心理臨床家が、内的世界ではなく現実世界を、精神分析の知は大事にするが、目の前のクライエントの現実適応を大切にされるようになっているなとたびたび感じます。日本の精神分析にとって、かなりの過渡期なのではないでしょうか。

 

2023年7月28日

「治療的柔構造 

 「治療的柔構造~心理療法の諸理論と実践との架け橋」は、岡野憲一郎先生が2008年に上梓された本です。

 昨今、精神分析学会を取り巻く動きとして、精神分析的心理療法と精神分析の違いを明確化し、それぞれ別個のものとして考えていくという流れがあります。この議論はもう20年以上前からなされている議論なのですが、最近になって中堅の心理臨床家の先生方が、POSTというものを提唱されています。

 POSTとは、Psychoanalysis  Originated  Supportive  Therapy(精神分析に起源をもつ/由来するサポーティブセラピー)の略で、精神分析のように無意識を扱うことはせず、意識を大事にする。しかし、見立てや理解は常に精神分析理論に基づく。治療構造や頻度、終結についての扱いは柔軟で多様である、といった心理療法(カウンセリング)のことを言っています。

 これを聞いて、私は岡野先生の「治療的柔構造」を思い出しました。たとえば、週1回50分のカウンセリングです、とカウンセラーが提示したとします。しかし、カウンセリングにいつも30分遅刻する相談者さんがいます。こういうとき、カウンセラー側としては不都合で、大事な時間をどうして守らないのかと時には腹も立て、この相談者は構造を守れない人だと考えがちです。しかし、あまり分刻みのスケジュールに追われていない生活を送っている相談者さんにとっては、30分くらいの遅刻はむしろ日常的なことかもしれません。とすれば、時間に関するルーズさというのも実は相談者さんが持ち込んだ「治療構造」の一つとも考えられます。少しくらいカウンセリングの時間が短くなっても、残った時間で深い内容の話ができれば満足だと考えているかもしれません。

 ただ残念なことに、それに合わせてくれるような心理臨床家(カウンセラー)はあまりいません。心理臨床家は、どうして遅刻するのかと意味を考え、相談者さんと共有し、なんとか時間を守るように促します。

 同様に頻度についても、カウンセリングの多くは週1回を基本にしますが、相談者さんには現実生活があり、毎週同じ曜日の同じ時間をあけておくということが、実は非常に困難なことかもしれません。このように考えると、治療構造は相談者のためにあるのではなく、心理臨床家のためにあると言っても過言ではないと思います。であればどうすればいいかということですが、治療構造を心理臨床家が相談者さんに押し付けるのではなく、お互いに話し合い、納得する形を考えていくことが大事になってきます。

 以上が岡野先生による主張ですが、私はこれまで治療構造というものを慎重に、大切に考えてきましたし、治療構造を一定に保つことで見えて来る相談者さんの課題や気持ちというものがあると考えています。なので、治療構造の意味について、しっかりと考えていきたいと思います。

 また、精神分析学会では、治療構造は当然守らねばならないと硬く考えていますので、治療構造や頻度、終結についての扱いは柔軟で多様であると主張するPOSTが、どう受け入れられるのか排除されるのか、関心をもっていこうと思います。

 

2023年7月24日

「親子並行面接について① 

 親と子が一緒に面接にいらっしゃることがあります。そういった場合、同じ曜日の同じ時間に、親面接と子ども面接が行われることが多いでしょう。大学の心理教育相談室などでは、大学院生の多くが子ども面接を担当し、院生よりも年上のセラピスト(経験年数が若干上)が親面接を担当する場合が多いようです。(そういった教育体制の大学の場合、親面接について、大学院生がどこで勉強や指導を受けているのか疑問ですが、この点についてはまたの議論とします)。

 親面接は通常の面接以上に、メタ認知を必要とする、より高度な面接技術が求められていると思います。

 親子並行面接の場合、目の前にいる親、子ども、子ども担当者の面接への配慮や、全体構造を把握する目、どのような力動が動いているのかを見る目が必要となります。

 たとえば、母子分離がテーマになっている場合、母親面接者と子ども担当者との仲がギクシャクしたりします。お互いにどの程度、情報共有をするのかということも問題になってきます。逆に、当たり前のように、いつまでも濃厚な情報共有がなされ、親面接や子ども面接の内容が筒抜けになってしまっていることがよく見られます。その場合、母子分離はなされず、母親面接者の指示を子ども担当者が仰ぐことになり、いつまでも母親にからめとられた母子並行面接が続いてしまうことになりかねません。

 重要なのは、親面接者が構造や力動を把握することであり、子ども担当者を信頼して、その独自の展開を見守ること、内部に踏み込むのではなく外枠を強化して守ることでしょう。子どものペースに合わせて面接を設定することも大切です。親が子を見守るように、子ども面接を見守ることが親面接者には求められていると思います。

 

2023年7月22日

「集団精神療法 

 心理士として、私が最初に勤務した単科の精神科病院では、ある病棟の入院患者さん全員と、その病棟の医師や看護師全員、そして集団精神療法をアメリカから取り入れた先駆者の先生(男性の年配医師)と私が参加する、病棟集団精神療法という治療プログラムがありました。前後にスタッフとの会議を挟んで、その間に60分の集団精神療法を病棟ロビーで行っていました。目安箱というのが病棟に設置してあり、その日に話し合いたいテーマを入れることができます。集団精神療法のはじめに、話し合いたいテーマを募り、目安箱に入っていたテーマと合わせて、その日に話し合うテーマが決まります。個人的な悩みだけでなく、病棟生活で困っていること、病棟のルールや設備について改善してほしいこと、スタッフとの関係で悩んでいることなどがテーマになることが多かったです。

 その病棟は、綺麗な開放病棟で短期入院の方が多い病棟でした。入院している方はリストカットや死にたい気持ちがある、20代から30代の方が多く、差額ベッド代もあって入院費が高い病棟で、患者さんは頭も器量もよい方が多かった印象でした。その中で、1週間に1度、当時20代後半の私が司会者である先駆者の先生の横に座っていたので、目に入りやすかったこともあると思うのですが、結構、集団精神療法で攻撃対象にされることが多かったです。

 「臨床心理士の士は、医師や看護師の師か、武士の士か」と聞かれ、「武士の士です」と答えると、「武士の士がついている職業は大したことはない」と言われたり、「あなたの表情はよくわかるので意見を述べよ」「あなたがダメ!直してください」と言われたりもしました(泣)。いやあ、集団って大変ですね、、、

 患者さんも看護スタッフも、集団精神療法のことが嫌いな人が大半でした。おそらくグループのテーマが、批判的なものや、誰かに対する不満だったりすることが多かったからだと思います。特に看護スタッフは、自分が攻撃対象にならないように、無表情で座っていたのが印象的でした。もしテーマが、それぞれの趣味だったり、最近よかったことだったりすれば、雰囲気はがらりと変わるのですが、なぜかグループのテーマがそうなることはなかったです。今考えると不思議ですね、、、

 やはり、アメリカからの直輸入だったので、日本に馴染むにはかなりの工夫が必要だったのだと思います。

 

2023年7月20日

「カウンセリングの頻度について」 

 従来から日本で行なわれるカウンセリング(心理療法)は、「週一回45−50分」を基本としてきました。精神分析学会の、初学者の登竜門として、「研修症例」というカテゴリーがあり、そこでは少なくとも週一回45-50分の症例のみ、発表してよいことになっています。

 しかし、実際のところ、心理臨床の現場では、週一回が難しくなり、二週に一回という症例が多くなっています。私も相談者の方によっては、毎週くるのは厳しいし、30分にしてほしい、という声もよくお聴きしてきました。ではなぜ、週一回45-50分をカウンセラーは守ろうとするのでしょうか。本来毎週4−5日で行われる精神分析ですが、では何故、毎週1-2回の頻度で行われる精神分析的心理療法というものが存在しているのでしょうか。そもそも、精神分析と精神分析的心理療法はどう違うのでしょうか。

 この議論は、私が知るところでは、20年以上前から、変わらずなされています。そうして最近の結論では、精神分析と精神分析的心理療法はまったくの別物であり、つかう技法や、カウンセラー(セラピスト)の態度にも大きな違いがあるということです。

 そもそも、週5回もカウンセリングがあれば、今日気になったことが出てきても、明日、セラピストに聞けばよいと待っていられますが、毎週一回だと、6日間も、もやもやを抱えていなければいけませんし、二週に一回だと、13日間も抱えていなければなりません。これは、相談者にとってはかなりの負担ですし、本来カウンセラーに言うべきカウンセラーやカウンセリングの不満を、周りの人に言うことにもなりかねません。そうして、待ちに待ったカウンセリングの時には、前回感じたカウンセラーへの不満やカウンセリングへの疑問は吹っ飛んでいることでしょう。

 また、頻度が密になればなるほど、日常生活の報告よりも、カウンセリング(心理療法)体験そのものに関する話題が語られやすくなるということもあります。

 私の体験として、火曜日水曜日連続の、精神分析的心理療法の経験(カウチにて実施)と、二週に一回のオンラインカウンセリングの経験があります。私の感じだと、トラウマを負っている人が高頻度のカウンセリングを受けるのは、何度もトラウマ体験に向き合わねばならず、危険だと思います。それよりも、二週間か、一ヶ月に一回くらいの頻度で、環境的に安全安心を感じられる場所でカウンセリングをうけたほうがよいと思います。ゆっくりと、辛い体験に向き合い、時には心理敎育も入れながら、日常生活を送ることが大切な気がします。そのためには、家族や友達や恋人などの支えも大きな力になると思います。

 頻度と時間の問題についてはまた、考えていきたいと思います。

 

2023年7月18日

「精神分析を志す中堅カウンセラーが目指しているもの」

 精神分析学会の重鎮、小此木啓吾先生がお亡くなりになってからだと思うのですが、精神分析のいろいろな学派が自己主張を始めました。前に書いたように、対象関係論、独立学派、自我心理学、自己心理学、対人関係・関係精神分析などの学派があります。

 小此木先生がご存命だったころは、自我心理学が中心で、その他の学派は後ろに退いていたのです。小此木先生は、いきなり対象関係論のような学派を全面に持ってくると、日本に精神分析が根付かないと考えられたようです。精神分析(的心理療法)を基礎から学びたいという初学者たちは、小此木先生率いる慶應グループが中心の、慶應精神分析的心理臨床セミナーというセミナーに、毎週の仕事帰りに通っていました。講師陣は、医師や精神分析家ではなく、心理臨床家でした。

 小此木先生がいらっしゃらなくなってからしばらくは、シンポジウムなどの壇上には、各学派を代表するベテランの先生方があがっていらっしゃいました。次第に、心理臨床家よりも、精神分析家で医師の先生が中心になってきました。そして最近の精神分析学会では、対象関係論(クライン派)が主流となっています。心理臨床セミナーに通っていた初学者は、今では対象関係論勉強会の精神分析基礎講座に通うようになりました。30年の歴史を誇る、慶應精神分析的心理臨床セミナーは、精神分析的心理臨床セミナーと名前を変えています。

 精神分析は、週4~5回のセッションを持つことを前提としていますが、精神分析的心理療法は、週1~2回のセッションを前提としています。医師は診察があるので、なかなか心理療法(カウンセリング)の時間をとることができません。カウンセリングを行うのは、もっぱら心理臨床家(臨床心理士、公認心理師)に託されてきました。だいだい、精神分析や心理療法(カウンセリング)の1回のセッションは、相場が8,000円くらいなのですが、著名な精神分析家となると、10,000~15,000円かかります。それを週5日行うとなると、相当裕福な方でなければ受けることはできません。

 世の中のニーズとしましては、週1回、あるいは隔週1回のカウンセリングが中心となっているのも事実で、最近になって、中堅の心理臨床家は、これまでの精神分析的心理療法とはちがった形を提示するようになってきました。これまで、精神分析的であることを堅持していた心理臨床家は、クライエントのニーズに合わせて手法を選択することを目標にするようになってきています。

 そこで新たに注目されているのは、ありふれた、普通の心理療法(カウンセリング)だったり、精神分析を起源とするサポーティブな心理療法であったり(これはPOSTと呼ばれています)します。精神分析的心理療法が、相談者を励ましたり、褒めたり、助言をしたり、心理教育をしたり、セラピストが自己開示したりすることを否定してきたのに対して、最近の中堅の心理臨床家は、相談者の方を励まし、助言や心理教育をし、自ら自己開示することをよしとしています。

 皆さんはどんなカウンセリングを受けたいでしょうか。私は、相談者の方の状態や症状、抱えている困難によって変わってくると考えています。

 

2023年7月16日

「精神分析(的心理療法)って何?」

 山梨クロネコカウンセリングオフィスでは、精神分析的心理療法を行っています。精神分析的心理療法では、主に自由連想や夢を用いて、無意識の内容を理解し、これまでに理解し得なかった視点から、人生について考え、学ぶことを目指していきます。

 初回は、困っていらっしゃることを中心にお聞きし、その後、「アセスメント面接」で3回程お話を伺い、精神分析的心理療法がお役に立てるかどうかを一緒に考えます。精神分析というと何か怖い感じがするかもしれませんが、そのような思いがありましたら、是非ご相談ください。そのうえで、実施していこうとなった方のみ、継続的な精神分析的心理療法を行います。

 精神分析的心理療法ではなく、他のカウンセリングが適用と判断された方には、認知行動療法や支持的(サポーティブな)精神療法などを行うこととなります。

 一度来られたからと言って、必ず通い続けねばならないことはありませんので、ご安心ください。

 また、精神分析にはいろいろな学派(やり方、手法)があります。対象関係論、独立学派、自我心理学、自己心理学、対人関係・関係精神分析などが代表的です。その中で私は、当初、自我心理学を勉強・実践し、そのあと対象関係論を中心に勉強・実践し、現在は、対人関係・関係精神分析を勉強・経験しています。どうしてそのように学派が変わっていったのかといいますと、大学院からの恩師が自我心理学を教えてくださる先生で、その先生のもとで長年自我心理学を実践してきました(対面、週1回が基本)。しかし、私が最初に受けた教育分析(カウンセリング、心理療法)は対象関係論のセラピストでした。そこで約2年間、週2回の対象関係論の精神分析的心理療法を寝椅子(カウチ)で受けました。そうして5年たってから、オンラインで対人関係・関係精神分析の先生にカウンセリングを受けています。

 同じ精神分析といっても、それぞれの学派で大きく違っています。対象関係論のカウンセリングでは、セラピストの先生は自己開示をされませんでした。たとえば、「先生のおススメの本を教えてください」と言っても、教えてはくださいませんでした。なぜかというと、なぜおススメの本が知りたいのかということを大事にしているからです。また、助言なども一切されませんでした。

 一方で、対人関係・関係精神分析の先生は、ご自身のことをブログに書いていらっしゃいますし、本にも記しておられます。私が言ったことに対して、的確な助言をされますし、考え方が偏っていると指摘してくださいます。そしてとてもユーモラスです。

 自我心理学、対象関係論、対人関係・関係精神分析の3人の先生、どの先生のことも信頼していますが、私の経験を通して、どういった状態の方にはどういったカウンセリングが向いているかを、大切に考えるようになりました。

 

2023年7月12日

「夢について」

 夢って、いったい何なのでしょうね、、、

 ユング派は夢を非常に大切にしていまして、カウンセリングで夢日記を書いてもらってそれを扱ったりしています。

 精神分析(的心理療法)でも、夢は重要なものだと考えていて、ユング派との違いはありますが、クライエントさんがカウンセリングの中で話された夢は、クライエントさんにとってどういう意味があるのか探求していきます。精神分析の中の一つの学派、対象関係論学派は、「考えること」と「夢みること」を同じ次元で扱い、夢見ることは、考えられるようになることと同じように捉えています。

 私のカウンセラーは精神分析家ですが、夢について対象関係論学派とは違う考えを持っていて、例えば夢の中で人を殺す夢を見たとして、それは本人の無意識の自己とは考えずに、自分の中にそういう他者がいる、あるいは、これまで虐待などの攻撃を受けてきたひとにとっては、攻撃者への同一化と考え、虐待してきた人に同一化して出てきたものであり、その人自身のものとは考えないようです。

 私はよく夢を見ますが、心理療法の世界に入った理由として、よく見る夢がありまして、それを解明したいと思っているということがあります。その内容は私にとって奇妙な不思議な納得しがたい内容なので、今まで誰にも言ったことがありません。また、その他にもよく見る夢があったり、日ごろはあまり考えていないものが出てきたり、抑圧しているものが出てきたりしているので、どこかで自分につながっているのではないかと思っています。確かに、自分の中にそういう他者がいると考えると救われるところがありますが、それはどうなんだろう、、、と気になっているテーマです。

 今の私は、クライエントさんが語る夢について、クライエントさんの連想や考えることを大切にしたいという立場です。

専門的な話になってしまいますが、フロイトの書いた「夢判断」という本は、日常生活において無意識に抑圧されている欲求との関係を分析してますし、精神分析の対象関係論の中の、独立学派の一人、T.H. オグデンは、「精神分析の再発見: 考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること」という著書を世に出しています。ユングによる著作としては「ユング 夢分析論」という本がありますし、ギーゲリッヒによる「ギーゲリッヒ 夢セミナー」という事例が取り上げられている専門書もあります。とにかく夢については、たくさんの書籍が世にでています。

 夢分析について理解しやすいマンガとしては、森田健一先生の「マンガ 夢分析の世界へ ふしぎなカウンセラーと四つの物語」という本があります。

 私は自分の夢について考えながら、夢とは何なのか、という問いを紐解いていきたいと思っています。

 

2023年7月5日

「わかること、わからないこと」その1

 誰かと話をしていて、だいたいは相手に話をわかってもらいたいと思うのではないでしょうか。しかし、自分が経験したことや、自分の気持ちをどこまで相手にわかってもらえるのでしょうか。もちろん、いつも一緒にいる友達や家族、恋人にはなんでもわかってもらえるし、わかり合っているという方もあるかもしれません。

 カウンセリングでよく言われることとして、相談者の方の話をすぐにわかったつもりにならないこと、ということがあります。わからない、ということを大切にし、わかろうと話に耳を傾け続けること、それでもなかなかわからない、を経験することが、必要だと言われます。しかしわからないで終わるのではなく、最後にはわかっていなければいけないそうです。

 それはそうだ、という声が聞こえて来そうですし、私も相手のことをわかっていたいし、わかっていけると最近まで思っていました。しかし、このところは、人間の行動や考え、気持ちをわかることは究極的には無理なのではないかと考えるようになりました。また、他者のことは結局わからないんだ、という考えに救われることもあります。そうでないと、「どうしてあんな行動をとったのだろうか、理由を知りたい」「もっとわかっていてあげれば、こんなことにはならなかったのに」という想いに縛られすぎて、自分を責めてしまうことになります。

 そのことに気づいてからは、相談者の方の語りをお聴きしますが、わからないこともあるということ、そして、「わかる」「理由を知る」ということは、究極的には無理なことなのだと思うようになりました。人のことはわからないこともあるという考えが、少しでも相手を救うこともあるのではないでしょうか。

 

 2023年7月5日

「カウンセリングについて思うこと」

 最近、友達と話していて気づかせてもらえたのは、私は穏やかで静かなカウンセリングがいいなと思うことです。得てして、カウンセリングをうけて劇的な変化とか、これまでと違った価値観とか、助言とか、課題がスッキリなくなるとかを求めてしまいがちです。カウンセラーの言葉の量の、多い、少ないに関係なく、カウンセラーはあくまで脇役で、主役は相談者だと思います。脇役が目立ってしまうというのはどうなんでしょうか。

 カウンセリングが、漫才のように盛り上がることもあると思いますし、笑いが絶えないカウンセリングもあります。私もそれは経験しています。けれど、カウンセラーはあくまで相談者の方の、伴走者(音楽でいえば伴奏者、漫才なら安定したツッコミ役)、寄り添い役だと思います。

 本や論文をよんでいると出来の良いカウンセリング事例に出会います。腕のよいカウンセラーだなと感じることもあります。しかし、そこで違和感を感じます。カウンセラーが目だって記述されていたり、カウンセラーの一言や行動を中心に論じられているのです。

 逆に初心者のカウンセラーにはそういうことはあまりなく、相談者の語りや様子がしっかり書いてあります。

その違いは、自分がいかにわかっているかを示したいカウンセラーと、相談者のことがまだわからないと感じ、一生懸命、相談者に寄り添おうとしているカウンセラーの違いだと思います。

 相手のことをわかろうとするけれど、わかり得ないことも、経験しているカウンセラーは、相談者のことを大切にしますし、自己顕示的でなく、謙虚なのではないでしょうか。

2023年7月2日

「私のカウンセリング体験その2」

 大学院生活が終わり、2年間のカウンセリング(精神分析的心理療法)も終わりました。私の課題が解決したわけではなく、生活が切り替わることによる中断、といえるかもしれません。

 カウンセラーがカウンセリングをうけることを、教育分析ということもありますが、カウンセリングであることには変わりありません。

 その後、またカウンセリングを受けたいという気持ちが出てきたのですが、山梨を中心に生活を送っているために、前のカウンセラーさんにご紹介いただいた東京にいらっしゃるカウンセラーさんにお会いすることは難しいと感じました。しかし、私が信頼できるカウンセラーさんは山梨には心当たりがなく、遠方にいらっしゃることもあり、私はオンラインで信頼している先生にカウンセリングを受けたいと、考えました。前のカウンセラーさんは、対面でカウンセリングをうけたほうがいいとおっしゃいましたが、私は自分の直感を信じ、尊敬している先生に連絡をとりました。

 5年ぶりに連絡をとったので、私のことも覚えておられないかなと思ったのですが、先生はすぐにお返事をくださり、私のことも覚えていてくださり感動いたしました。また、オンラインカウンセリングをお願いしたところ、すんなりと引き受けてくださいました。

 そうして私はオンラインカウンセリングをうけているのですが、対面でカウンセリングをうけるのとあまり差がないように感じています。

 パソコンの状態なのか、声が二重に聞こえたりといった不具合もありますが、それ以外は安全安心な自宅にいながらカウンセリングを受けていることに大変満足しています。

 皆さんにも、一度オンラインカウンセリングを体験していただけたらと思います。

 

 2023年7月1日

「カウンセリングをなぜ継続して受けるのか」

 カウンセリングは、週に1回を基本としていますが、隔週に1回とか月に1回という方もいらっしゃいます。カウンセリングの頻度は、どうやって判断すればいいのでしょうか。そして、なぜカウンセリングを継続する必要があるのでしょうか。

 カウンセリングで、何を期待するかということにもよりますが、カウンセラーが助言をするよりも、ご自身で気づき、自発的に変化することが効果的と言われています。抱えていることや、感じていることについて話し、カウンセラーに受け止めてもらい、カウンセラーからのフィードバックを聞いて考えたり感じたりしていきます。一度気づいただけで大丈夫という方もいらっしゃるかもしれませんが、何度も気づいたり、体験したり、訂正したりしながら、進んでいくものです。そのため、初回のカウンセリングで全て気づいたり話しきることは難しく、継続したカウンセリングの中でご自身の課題を捉え、カウンセラーと話をする中で、課題の解消やご自身の理解を深めていくことが必要となります。

 カウンセラーと出会って、すぐになんでも話せるという場合もありますが、何回かお会いしているうちに、信頼感が築かれていきます。このカウンセラーなら何でも話せるという安心感、信頼感は非常に大切です。

 カウンセリング(心理療法)は、基本的に週1回というのが多いですが、精神分析(的心理療法)になると、週に2回~5回の頻度を必要としてきます。精神分析(的心理療法)とは、相談者の方に自由に話をしていただき、それに対して分析家(心理療法家)が解釈などを伝えていくというもので、週1回の頻度のカウンセリングとは性質が異なります。たとえば、週に5回、精神分析家に会っているというのを想像してみてください。今日考えたこと、体験したこと、感じたこと、話忘れたことを、次の日には信頼している分析家に伝えることができるということは、相談者の方のかなりの支えとなります。

 カウンセリングも精神分析(的心理療法)も体験したほうが実感されるところが多いと思いますので、まずは足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

2023年6月27日

「どんなカウンセラーがいいのか」

 皆さんがカウンセリングを受けようと思われたとき、どこで受けようと決められるのでしょうか。通院されている方は、主治医からの勧めかもしれません。あるいは、すでにカウンセリングに通っている方からの紹介かもしれません。あるいは、インターネット社会ですから、ネットで検索してホームページをご覧になって決めるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 ホームページをご覧になって決める場合、決め手はなんでしょうか。通いやすいとか、ホームページの雰囲気がなんとなく自分にあっていると思ったとか、臨床心理士の資格を持っているからとか、手ごろな料金だったとか、いろいろあると思います。

 私は、カウンセリングに大事なのは、カウンセラーと合うかどうかだと思っています。もちろん、皆さんがお困りのことを解消するのに役立つカウンセリングが一番なのですが、部屋の雰囲気、カウンセラーの雰囲気、話し方、声のトーンにはじまり、どんなカウンセリングをしているのか(聴くだけなのか、助言をする人なのか、分析する人なのか)、どんな手法を使っているのかということも大切になってきます。よく聞かれるのは、「自分ばかりが話していて、助言をしてもらえなかった」という声です。カウンセリングは、ご自身が気づいていかれるのを援助する、ということもあるのですが、それにしてもカウンセラーが相槌だけで一言も話さなかったということもあるようです。

 その方のニーズや状態によって、カウンセラーがどれくらい助言するのか、しないのか、分析をするのか、解釈をするのか、ということはカウンセラー側が見立てて、相談者の方と決めていくのですが、カウンセラーから提案があったときや、カウンセリングの最中にでも、なにか合わないと思ったら、それをお伝えになった方がいいと思います。

 カウンセリングでは、カウンセラーと相談者の方の関係性が大切と言われていますので、いい関係性を構築していくためにも、ぜひ伝えてほしいなと思います。

 

2023年6月25日

「ダブルカウンセリングについて」

 同時期に、2人のカウンセラーのカウンセリングを受けることをダブルカウンセリングといいます。

 一般的に、ダブルカウンセリングは良くないこととされ、避けるべきだといわれています。それは、Aカウンセラーにいわれたこと、Bカウンセラーにいわれたことが、真逆だったり矛盾していたりすると、ご本人が混乱すると考えられているからです。また、Aカウンセラーのことで何か気に入らないことがあったとき、それをAカウンセラーではなく、Bカウンセラーに言って、不満を解消して終わるということも考えられるからです。カウンセリングでは、Aカウンセラーに対して感じた不満や疑問は、Aカウンセラーに言うことが推奨されています。なんでも言えて話し合える関係がよしとされているからです。

 では、スクールカウンセラーについてはどうでしょうか。カウンセリングを受けている生徒が、スクールカウンセラーに相談することも、ダブルカウンセリングと言われてダメだとされることがあることに、私は疑問を感じています。スクールカウンセラーと、カウンセリングでは、役割が違うところもあるので(スクールカウンセラーは本人の学校での様子を直接見聞きしている)、それぞれが相補的に役立つこともあるのではないかと私は考えています。

 それを突き詰めていくと、病院で、医師、看護師、薬剤師、作業療法士、精神保健福祉士、栄養士と患者さんが話をすることがあると思うのですが、それをよしとしていることと何が違うのか、とも思えてきます。

 このテーマはまた考えていきたいと思います。

 

2023年6月23日

「当事者は、援助者になれないのか」

 私は今、山梨県内の大学で教員をしているのですが、学生たちの真面目さ、素直さに日々驚きます。まず、授業をしている時に私語をしている学生がいないのです。「静かにしてください」と、注意したことが一度もありません。聞くと、中学校で不登校だった、高校を中退して高卒認定試験をうけた、メンタルを病んだことがある、という学生が割といるな、という印象なんですが、大学デビューを果たした人が多くて、とてもキラキラしています。

 私の話も真剣に聞いていて、課題にも真面目にとりくみ、センスのよい回答をしてくれます。

 思うに、すんなりと中学高校といかなかったことで、人一倍他者の辛さや孤独や悲しみに共感できるのではないでしょうか。

 よく、自分の問題を抱える人は、心理臨床家にならないほうが良いと言われますが、私から見ると、すんなり人生のレールにのってきた人よりも、臨床センスがあるように思います。

 ぜひ、患者さんに寄り添える心理臨床家になって欲しいと、せつに願います。

 

 

2023年6月22日

「私のカウンセリング体験その1」

 私はおよそ5年前にカウンセリングを2年間うけたのですが、週に2日、カウチ(精神分析で用いる寝椅子)に横になってうけるという経験でした。初めて受けるカウンセリングだったため、セラピストは精神分析学会の発表でこの人だ!と惚れ込んだ人(女性)を選んでアプローチし、なんとかカウンセリングを受けられることになりました。とても上品で、綺麗な方なのですが、私が惹かれたのはその方の声でした。どこからそんな声がでるのか、と思うような、優しく、穏やかで、シルクに包まれているかのような声でした。とても小柄な先生なのですが、カウチに横になると、すごく大きくて強く、存在感があり、わたしのほうがちっぽけで弱い存在に思えました。

  カウチに横になると、コレが不思議なことに、話したいことがぺらぺらでてくるのです。先生はわたしの頭の側にいらっしゃるので、先生の様子はまったくみえなかったのですが、非常に親身になってくださいました。(→私のカウンセリング体験その2についてはまた後日書きたいと思います。